風呂で詩を考える
言葉は人を映し出す鏡のようなもので、私の誌はまさに水垢にまみれた鏡といえる。だからこその見える景色があるのかもしれない。いや、まだ詩ではないのだけれど。
スマホを風呂場に持ち込んで書いています。
詩『お風呂』
冬は風呂場が寒く、湯温はクソ暑く
湯船のお湯を漂う誰かの長い髪の毛と、父親が擦ったであろう垢が浮いている
換気扇はいつしか回らなくなり、高速道路は眠らなくなった
揺らぐ水面
心臓の鼓動がある限り、水面は波立つ
これでも生きているのだと
騒がしく生きているのだと
汚らしく生きているのだと
心鏡の湖
余談
続きに女声について語りたかったのだが、詩としてのまとまりがなくなるために切り上げた。
詩に興味が湧いてきたため、行きつけの図書館で詩集を借りて読んだが、どうやら私は短くて淡白な詩が好きらしい。長い詩は読む気にならなかった。だからといって、俳句や川柳といった定型では表現がしづらい。
自由律の詩であれば、表現方法は自由だし、難易度もぐっと下がる。小説やショートショートのような堅苦しさはなく、Twitterのような軽々しさもない。言葉の味わいを極限まで堪能できるのではないだろうか。
なんて、詩の初心者が語る。
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