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【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#82

17 遣欧使節団と留守政府(3) 

 馨は結局大隈のところに顔を出すことなく、渋沢とともに大久保の家に向かった。二人が大久保の家に着き、案内の女中に手土産を渡しているところに大隈も到着した。
「馨と渋沢は一緒だったのか」
「すまん、あれから大隈のところに顔を出す暇がなかったんじゃ。まぁいいじゃないか。一緒に案内してもらえば」
 大隈は馨がいつもと変わらない様子だったので安心した。
 夕食会は一応和やかに進んでいたが、会話の内容は当たり障りのないことが多かった。ただ、渋沢と馨という洋行経験者がいるのだから、自然そういう話題が多くなっていた。
「井上くんはイギリスだったね」
大久保が馨に尋ねた。
「僕はイギリスじゃったが、今のように堂々としたものではないです。まだ公儀が認める前で、密航じゃったし、攘夷の真っ最中で、何にもわからんままのことです。上海に着くというときに攘夷なんて馬鹿らしいと言って、伊藤くんにえらく怒られての、よく覚えとります。渋沢くんのとは全く別もんでしょう」
「井上さんのような冒険心とは幾分違いましょうが、私の場合はヨーロッパの各国を巡り、パリでの万国博覧会というのもありまして、公儀を背負ってのこともありましたから、沢山の人の思惑の中で、気苦労もございました。それでも日々の生活が学びの場で新鮮な驚きばかりでございました」
「ロンドンのカレッジという所には、様々な人が学ぶために集っとった。藩校とは全く別の場であることは驚きじゃった。大隈さんだって長崎でフルベッキのもとで学んだのだったのう」
 そう言いながら馨は、グラスのワインを煽るように飲んだ。かなり苛立っていた。給仕が注ぎに来るとそれも飲み干してしまう。その様子を見て渋沢は止めようとした。
「渋沢くんも伊藤みたいになってきたの」
馨は渋沢にもいらだちを見せていた。
「もっとも、大久保さんは、安全なところから我々の遣り様を見て、西洋かぶれが、大人しゅうしておれと、思うておられよう。面倒なやつは抑えておけっちゅうて、偉そうに。偉い方はええですな。それでもって治まるもんらしい。わしらを馬鹿にしちょるんじゃないか」
 馨は酔いにまかせて話しだしたところで、最後は罵詈雑言めいてきた。さすがに大隈がいい加減にしろと言ってきた。
「大隈さんに嫌われたら、やっていかれんことになる。僕はこのへんで失礼します」
そう言うと馨はよろよろと席を立ち、去っていった。
「申し訳ございません。井上さんが心配なので、これにて失礼いたします」
渋沢がそう言って席を立ち出ていった。馨の言動を見て、黙り込んだ大久保と大隈が残され、自然と散会となった。

 翌朝馨の出仕を待ち受けていたかのように、渋沢が転がり込んできた。
「井上さん、昨夜のことは」
「もう少し静かに話してくれんかの。頭が痛い」
「ワインをがぶ飲みするから」
「時には大酔っぱらいにでもなって、言いたいこともあるんじゃ。そもそもわしはそんなに酒は弱くない」
「覚えていらっしゃったのですか」
「そうじゃ。それがどうした。渋沢、仕事をするぞ。そういえば岩倉さんから問い合わせがあった、関税と収支の報告はどうなっちょる」
馨はつい大声を出していた。
「うー、頭いた」
渋沢はその様子を見て、くすっと笑うと「資料と一緒に後で薬を届けさせます」と言って出ていった。
 渋沢から届けられた報告書に目を通していた馨は、条約改正を7年のうちに成功させたいという結論に引っ掛っていた。そこに書かれていた数字を書き写し、見やすいように表にしてみた。そこにはこのまま何も手をうたなかったら、5年で輸入超過による収支は一層悪化し、国内産業は壊滅的になり、国力は下がる一方というものだった。7年はタイムリミットのように思われた。
 関税自主権と最恵国待遇。この2つの言葉が分厚い壁だった。しかも関税率は締結当時ほぼ20%だったところ、今の5%になったのは、長州の下関砲撃事件の賠償金のためであった。和議交渉で高杉と公儀に払わせるとやった結果だった。あのとき公儀は開港と税率引き下げの選択を迫られ、税率の引き下げを選択した。それが現在の改税約書の内容だった。
「アメリカは30%じゃ。20%であれば悪くなかったのじゃからな。まさに因果応報。解決するのはわしの仕事のようじゃ」
二日酔いの薬はいらないくらいに冴えてきていた。
 大輔の執務室は基本的に戸が開けられており、決済書類を持った職員が常に出入りしていた。馨が一読し、可となったもの、書き直しの書類はそのまま持たせて、次の段階へ送らせた。考えを入れるのが必要なものは、机の上の御用箱に入れた。この御用箱には常に書類が積まれており、庶務課の職員も整理はするものの、状況の確認も提出職員の仕事となっていた。膨大な事務料にはいくら効率を求めても、正院に送った事務がまた戻ってくることも多く、進捗はままならなかった。
 執務を終えて、帰宅すると馨は改めて、武子に博文の家に行く目的を話した。
「母上のご様子はあまり良いとは言えんの」
「それでも勇吉の世話はしっかりされております」
「その、梅さんに話をしておるっちゅうのが。勇吉のことで間違いないのじゃな」
「ええ、間違いございません。梅子さんからもお話いただいておりますよ」
「俊輔に話を先に通しておく必要があるのは、間違いないことじゃ。出かけようかの。そうじゃ武さん。持っていく土産はどうなっとる」
「こちらにご用意しております」
「さすがじゃ」
俊輔の家につくと、すでに待ち構えていたかのように立っていた。
「よう、俊輔。待ったか」
「こうやってゆっくり話をするのは久しぶりじゃ。楽しみだったんじゃ」
「ご主人自らご案内とは感激じゃの」
馨は流石に笑いながら言った。
「どうぞこちらに」と通された部屋で座についた。
 博文がすかさず酒を勧めてきた。馨は飲み干し、返盃をした。武子も梅子も座につきおしゃべりを始めていた。
「それでの。俊輔。話というのは勇吉のことなんじゃ」
「聞多の兄上のお子だの。梅さんから話は聞いちょる」
「母がいずれ梅さんに預けたい、という希望を持っておって。わしとしても俊輔に直に確認しておいたほうがええと思っての」
「僕はこの申し出受けるつもりじゃ」
「梅さんはどうなんじゃ。正直に言ってほしいの。なにしろ梅さんは、まだ男子を授かることができるんじゃから」
「私は旦那様のおっしゃるとおりで、大丈夫です。井上さまのお母上とお話をして、勇吉ちゃんと遊ぶ時間が楽しゅうございます。お母上にそれだけ信頼いただけるのは光栄なことと、思っとります」
「梅子さん、ありがとうございます」
武子も梅子に礼を言った。
「僕はいずれ勇吉を養嫡子にするのも考えちょるよ」
 さすがに馨と武子は梅子の表情から目を話せなくなっていた。井上の子を跡取りになど。これから先のことを考えると、母と子と皆の幸せを考えなくては、と思うばかりだった。
「聞多、僕は君と親戚になれることも、とても嬉しいんじゃ」
「俊輔、わしもじゃ」
 武子と梅子は顔を見合わせて、馨と博文の特別な関係が一層深くなっていくのを見守っていた。
「それでは、両家の一層のつながりに乾杯いたしましょう」
 梅子が音頭を取った。ずっと気の張っていた馨には、久々の穏やかな時間だった。屈託なく笑う馨を見て、武子には博文と梅子に感謝しかなかった。
「俊輔、わしらも梅子さんたちを、十分にお世話させていただくから安心して行って来い」
「ほう、それはうれしいの。梅さん。聞多と武さんとおれば心配なかろう」
「はい、有り難いことでございます」
そのあとも和やかに進んで、あまり遅くならないうちに馨たちは帰ることにした。
「出発のときの見送りには必ず行ける。ではまたじゃ」
帰宅して、馨と武子はくつろいでいた。
「お前様、よろしゅうございましたな。伊藤様とあんなに楽しそうに、私も嬉しゅうございました」
「ともかく梅さんも勇吉の良い母御になってくれる。母上のお心もな」
 武子には馨が梅子に見せた気遣いが、気になってしまっていたが、何も言わなかった。
 

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