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【短編小説】許させてよ


 それはそれはもう、破茶滅茶な魔女だったと聞かされた。

 わたしの母だ。周りの心労や苦労なんて意にも介さず、好き放題の限りを尽くし、だからわたしはあのひとと同じになるまいと固くこころに誓い、その思いは便りが届くたびに固く強く強固になった。

 毎年春先に決まって、母はわたしに手紙を寄越した。
 角ばった読みにくい母の文字は、煙草の煙に燻された真っ黄色の端紙に斜めに踊り、飲み屋のツケ代をせびる決まり文句の後に、僅かな近況が綴られるのが常だ。そうして決まって「たまには顔を見せろ」と締められた手紙を丸めて部屋の隅に放り、わたしは二度と顔を見せるものかと決意を新たにする。稼ぎの大半を飲み代と若い男に注ぎ込む彼女の生き方を心底醜いと思って育ったから、わたしは生活を切り詰め、少ない稼ぎの大半を貯金に回した。酒も煙草も遊びもやらない。あのひととは真逆の、清廉な魔女でありたかったから。そのわたしの努力の結晶が、あのひとのツケの支払いに消えるのが許せなかったから。

 わたしは、あのひとのような魔女には絶対にならない。

 最初の師である母からは、才能が無いと言われ続けた。絶対に見返してやると自分に言い聞かせ続けた。あのひとは最低な人間で最低な女で最低な母でもあったが、確かに至高の魔女ではあった。それがわたしのこころを昏く燻らせた。至高の魔女から下されたその評価が、真逆の性格のわたしに対する妬みだと思い込んだ。

 結果的に言えば、わたしには才能が無かった。

 だからこんな安い稼ぎで、どうでも良い仕事をさせられている。

 ひとと男を見る目は無いのに、母は魔法の才を見極める目だけは確かだったのだ。

 その年、例年なら春先に届く母の手紙が無かった。そんなこともあるかと、わたしは気にも留めなかった。煩わしさから解放された気さえした。飲み屋のツケを払い終えたとは到底思えなかったが、他に頼る相手を見つけたのかもしれない。ひとを見る目が無いあのひとが、都合良くそんな誰かを見付けられるとも到底思えなかったが。

 晩夏に手紙が届いた。

 母の死を報せる手紙だった。

 わたしは慌てて階下に住む雇い主である魔法具店の店主に事情を伝え、箒に跨がり地元を目指した。生ぬるい雨が降る夕暮れだった。わたしはびしょ濡れになることも厭わず、地元に着く早朝まで飛び続けた。十年ぶりの故郷は、わたしが飛び出したあの頃と何も変わっていないように見えた。

 母の亡骸は、有り体な表現ではあるが、眠っているようにしか見えなかった。今この瞬間にも目を開け、陰鬱な表情で覗き込むわたしに「だからお前はダメなんだ」と、酒気帯びのニヤけ顔で言い放つ想像はしかし、当然ながら現実にはならなかった。もう二度と目を開かない母の遺体は、まだきれいなうちに木棺に入れられ、寂れた教会の共同墓地に埋葬された。至高の魔女である彼女は、しかしその功績とは裏腹に社会と隔絶していた。木棺が土に埋もれゆく様子を、わたしは放心のまま見守った。生ぬるい雨は粒を大きくし、母だったものの埋葬が完全に終わる頃には土砂降りの様相を呈した。

 わたしは、母の遺体を発見した唯一の親戚である伯父の家に招かれた。
 伯父はわたしの母嫌いをよくよく知っていたから、十年ぶりの帰郷にも何も言わなかった。「よくやっているか」と、それだけ言った。わたしは小さく頷き、伯父が煎れてくれた珈琲を一口啜った。わたしの頭は寝不足と疲労で回っていないはずなのに、思考はやたら澄み渡っていた。澄み渡るわたしの不出来な頭は、しかし自分が何を思えば良いかもわからないようだった。

 母の死因は、持病の悪化だったと聞かされた。

 わたしは、母が病を患っていたことさえ知らなかった。

 わたしが十代の半ばになる頃から、母は肺を悪くしていたそうだ。わたしは知らなかった。母は食事も忘れて酒を浴び、煙草を喫んだ。母が咳き込んだり、体調を悪くしている様子など見た記憶はなかった。

 ……わたしは思い返す。思えば、その頃からわたしは家に寄り付かなくなったのだと。わたしに「才能が無い」と言い続ける意地悪な師から離れ、歩いて二日、飛んでも半日掛かる隣街の高名な魔女に弟子入りしたのだ。わたしは新たな師の家に住み込み、魔法の授業と師の生活の手伝いをした。

 自慢の師だ。母とは違いたくさん褒めてくれたから。

 しかし、師が褒めてくれたのはわたしの家事や食事の味についてだけで、終ぞ魔法を褒めてくれたことが一度も無かったことには気付いていた。わたしが魔法具店に勤めることが決まったあの日、師は優しく見送り心配もしてくれたが、わたしが師の家から出るこの日を待ち侘びていたような、湛えられた安堵の色にも気付いていた。不出来な弟子から解放された師は、また別の弟子を取り、その弟子はとても優秀だと聞かされた。師とは今でも幾ばくかの交流は続いているが、師の家を出てから今まで、師と魔法について議論を交わしたことは一度も無かった。

 わたしには、母との思い出が無かった。

 わたしが物心付いたときにはもう、父はいなかった。「あんな男」と、わたしが父のことを尋ねると母は決まってそう言った。「あたしが愛想を尽かしたんだよ」と母は言ったが、わたしは父が母に愛想を尽かして出て行ったのだと知っていた。

 近所のひとたちが決まってそう言ったから。

「良いお父さんだったのにね」「立派な先生だったのにね」

 魔法学校の教授である父。
 わたしと母に、一度も便りさえ寄越さなかった父。
 それが世間的な良い父としての振る舞いなのかを、わたしは父という存在を知らないから判断できない。

 毎年春先に決まって、母はわたしに手紙を寄越した。
 わかっているのは、母以上に最低な母親を知らないというそれだけ。

 母は魔法を教える以外の時間を、わたしと過ごそうとはしなかった。いつも違う男を家に招き、二人は一日中部屋から出てこない。誰も招かない夜は酒を喰らい、もういない父への悪態を止め処なく吐き続ける。わたしは高名で立派な父が悪し様に言われる言葉など聞きたくなかったから、自分の部屋に籠もって魔術書を読み漁った。そうしていち早くこの家から出るための、母から逃れる方法を考え続けた。

 あんな風にはならない。絶対に、あんな魔女にはならない。

 わたしはその意思を固め続け、そうして今では魔法具店で雑用係を任される立派な三流魔女になった。

「あいつが死んだら、これを渡すようにと言われていた」

 無言で珈琲を啜るわたしに、伯父は部屋の収納棚からディナープレートほどもある麻袋を取り出し、わたしの前に置いた。

 開けると、そこには溢れんばかりの金貨が詰められていた。

 伯父は何も言わず、わたしから目を逸らし、空になった珈琲を煎れるためにキッチンへと向かった。

 残されたわたしは、真っ白な頭で、孫の代まで遊んで暮らせる量の金貨を見つめた。

 飲み屋のツケとはなんだったのか。薄給のわたしに金をせびるあの手紙は。

 思えば、わたしは隣町の高名な魔女に弟子入りしたが、その下宿代と授業料の出所を知らない。母の知り合いであるその師が弟子を取りたがっていることを知り、わたしは我先にと家を飛び出したのだ。その情報をもたらしたのは誰だったか。……母だ。私が師の家の扉を叩くと、師はまるでわたしが来ることを知っていたみたいに家に招いてくれた。弟子入りしたいこと、そのためのお金が無いことを、わたしは辿々しい言葉で伝えた。師は優しく微笑み、頷いてくれた。「気にしなくていいのよ」師はそう言ったが、不出来なわたしが終ぞ破門されなかった事実に、わたしは今辿り着こうとしている。だから今すぐ考えるのをやめる。

 母と暮らした生活は、決して裕福ではなかった。だが、質素でもなかった。母は遊び呆け、近所のひとにもたくさん迷惑を掛けた。それでも、至高の魔女である母を悪し様に言うひとは誰もいなかった。皆が母の功績を認め、尊敬していることはわたしにもわかった。母が酒代に困っている姿など見たことが無かった。わたしが欲しいものを買い渋る様子だって。母と関係を持った男たちも、幼いわたしと遊んでくれる甲斐性を持つ優しい男たちだった。母とそりが合わなかっただけなのだ。気難しい至高の魔女を包み込める器ではなかっただけ。

 金貨の中から、紙片の端が覗いていた。

 わたしはそれを摘まみ上げた。

 そこにはこう書かれていた。

「愛しいあなたが、こちらに来るそのときまで、どうか安らかで幸せでありますように」

 角ばった読みにくいその文字は、煙草の煙に燻された真っ黄色の端紙に斜めに踊っていた。その文字が、ぼやけて霞んでゆく。

 母と過ごした日々。あまりにも短い日々。魔法を通じてしか関わらなかった魔女の母。あんなにも嫌った。絶対に許すものかとこころに誓った。至高の魔女が、どうしてこんなポンコツを産んだ。わたしはあなたの魔女としての素質の百分の一も受け継ぐことは無かった。どうしてこんなわたしを産んで生かしておいたのか。橋の下にでも捨て置けば良かったはずだ。

 今更になって愛しいだなんて。こんな大金を遺すなんて。

 それはそれはもう、破茶滅茶な魔女だった。

 それでもあなたは人間であり、母だった。

 今更知りたくなかった。ずっと憎ませていてほしかった。
 そうしてわたしより長生きして、至高の魔女らしく年齢不詳の不適な笑みを湛えて、不出来な弟子であり娘のわたしを嗤って見送るくらいのことはするべきだ。それがこんなにも呆気なく死んでしまうなんて……。

 伯父はキッチンから帰ってこない。気を遣う伯父はきっと、勝手口の軒下で煙草を吸っている。わたしのこころが落ち着くのを気長に待ってくれている。

 一人残された部屋に、わたしの嗚咽が響く。

 こんなにも涙が止まらないのに、

 こんなにも後悔が溢れてくるのに、

 わたしはどうしても、母を許せそうにない。

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