佐藤信夫 諦めない力

信夫先生の本を読んで気になったところをピックアップしていたらツイッターが長くなってきたので。

・昔の練習リンクは製氷車がなく竹箒ではいたり、天井に溜まった水蒸気がポタポタ落ちてきてあちこちで固まるのでカッターのついた棒で氷を定期的に削ったりしていた!
・エッジを自分の手で研いでいたのでいつも手は傷だらけだった
・世界選手権を屋外リンクで行うこともあった。
・西山勝次氏とのトレーニングで10日サイクルで自身の調子が変わることに気づく
→ピーキングにつながる話だねえ

・試合の時コーチが自分だけ先に行かないで一緒に会場入りしてくれたことが心強かったので、自分がコーチになってからも選手と同じバスに乗るようにしている

・世界選手権のエキシビションツアーでアメリカやカナダを回った
→エキシビションツアーなるものが存在したとは!それだけ北米でフィギュアの人気があったったことだろうね
・昔の全日本選手権は世界選手権後の3月末!エキシビションツアーに呼ばれても全日本のために戻らなければならなかった。

・世界選手権の代表選考は全日本とは別に前年の春から秋ごろにしていた
・70年頃のフィギュアにはヨーロッパ流と北米流があり、日本は北米流のスケートを手本としてきた。
・北米流は流れを大切にしたスケート、ヨーロッパ流は一つ一つの技を正確にするスケート

・都築先生から頼まれて、74年から佐野稔氏にコンパルソリーだけ信夫先生が教えていた
・佐野はそんなに器用な人ではない。ものすごく太っ腹。でもものすごい努力家。

・「ほんの一言で壊れるものは壊れてしまいますからね。積木でも大事なところを1つ外してしまえば全部壊れてしまう。選手の心もそれと同じです」
→信夫先生の繊細な気遣いを感じる
・カリフォルニアでコーチの勉強をしたことがある

・36歳の頃プリンスアイスワールドの前身ビバアイスワールドが始まりプロスケーターとして滑るようになった。プロの振付師はいないので日劇の先生方に来てもらった。当時試合でやったら怒られるクリームキンイーグルもショーでは披露した。40歳までアイスショーで滑っていた。

・昔は毎年5月の連休に池袋で国際大会の選考会をやっていたが、選考会当日もアイスショーがあり、朝の5時から試合の練習、試合終わったら夜7時にはショーが始まるので、コーチたちも試合の途中でどんどん帰ってしまうので、試合では自分の教え子じゃない生徒のリンクサイドに立つこともあった!

・松村充氏は最も長く教えた生徒の1人。73年の大阪での全日本選手権で突然のスケジュール変更。急に練習を開始することになって1人の選手を除いて誰も靴を履いていなかった。信夫先生が審判長に文句を言いに行った。コーチにはたとえ負けると分かっていても行かなくいといけない時がある。必要なら悪者にだってならないと。人に馬鹿にされるようなことでも恥ずかしいことでも平気ではないとダメ。

・松村充さんコーチ時代、レイクプラシッドオリンピックの選考がかかった79年全日本ショートプログラム。朝、松村が練習始めてすぐフェンスにぶつかって膝打ち歩けない。かかりつけの病院は先生が昼食に出てしまったと言うことで何もできず、近くの病院で痛み止めの注射を頼んだ。注射打ってもちょっと歩けなくなったらどうするのかと医師に言われたので、信夫先生は私が責任を取ります将来この子の面倒を見りまみますそのぐらいのつもりでいますから今日は何とかお願いします、と無理を言って注射打ってもらった。もう一回いつもの病院に電話して注射した薬の名前を伝えると電話にでたナースにその薬だと寝ちゃうから絶対座らせないようにしてくださいと言われて、出番までトレーナーの先生にとにかく座らせないでぐるぐるぐるぐるしていた。順番が来て何とか氷に降りたがもう瞳孔が開いていて、まずいと思ったけれどもほっぺた思いっきりひっぱたいて送り出した。ノーミス演技!控え室まで連れて行くと松村は靴を履いたままいびきをかいて寝ていた。滑り終えて1分か2分位のこと

→信夫先生の内側に燃えてる炎みたいのを感じるエピソードだとおもう。

・大人は見ているつもりでも大事なポイントは見ていないが、子供は意外と見ている。だから日本で世界選手権があれば、お子さんに見せてあげるように生徒の親に伝えている。高いチケットなのにちゃんとみてなかったと文句を言われるが後で聞いてみると何をやっていたか子供たちは意外と覚えている

・小さな子供には難しい事は教えず、氷の上で遊ぶ。エッジで氷を削ってと雪だるまを作ったり一緒に寝転がったり、わざと転んでつかまったりしながら鬼ごっこする。本格的なスケートのレッスンだと方にはめてしまうけれどもブレートの上にどんな力を入れたらいいのかということの自己感覚を植え付けてことが大事と考えている。

→信夫先生って、子どもが自ら伸びようとする力をすごく信頼してるんだなっておもう。

・リレハンメル五輪のハーディングの靴ひも事件では、信夫先生がそばで靴と靴ひもを見ると明らかにスケート靴に合わない太さの紐と分かった。この後有香選手が滑るが、これではもう彼女は試合を諦めるか最後の滑走順になると察し、友香選手滑走開始はほぼスケジュール通りと見当をつけ、関係者の人に由香選手に事件を伝えないようにお願いした。選手を引退してすぐにコーチをしているのでその辺の判断は有利だったと。

→コーチも試合にあたっては勝負師みたいな面がすごくあるんだなって実感するエピソード。

・教え子に逆回りのジャンプやスピンはやらせない。今の日本のリンク環境では無理。1人だけ逆走したら危ない。 

・肩幅が狭いから4回転を飛ぶのは東洋人が多い。回転運動させるなら半径の短い方が回転数のスピードが上がる。

・コンパルソリーをやった者の目から見たら今のスケートは90%はスリーターン。一見ブラケットらしい形を描いていてもそれはコンパルソリーのブラケットとは根本的に違う。

・エッジに乗る滑りと言うのは自分の力でぐっと押すんではなく、体重移動で滑ること。左に体重をかけ重心が左足から右足にふっと移動すると体重移動が生まれてくる氷の上を滑る。その繰り返しで滑ることを覚えさせるすると余計な力を使わないで徐々にスピードが上がってくる。あるスピードを超えると深いエッジに乗っても体が倒れない。

・コーチは世間様から、たとえこの人はダメだね、とマイナスの採点をされようともそれを受ける勇気だけを持っていなければいけない。

・村主、荒川、安藤が同じリンクに立ち指導したことも。コーチは仕事として割り切り、どの選手に対してもその子が力を出し切れるようにする。今で言えばブライアンオーサーの所には羽生結弦もいればハビエルフェルナンデスもいる。互いに切磋琢磨している。

→羽生くんの名前が出たのはココだけでした。コーチとしてトップ選手を同時に預かる難しさについてのお話でした。

・僕も真央も両方あきらめなかった。たとえぶつかっても諦めなかった。何か困ったことがあったらどちらかが考え方をわずかに変えていく。目標は同じ方向にある。そうしていくうちにどこか溶けてしまうすり減ってしまう。最初は2人の考え方が大きく開いていても徐々にその幅が狭まっていく。完全に一本にはならないけれどだいぶ近づけたかもしれない。そうやって1から教えてもそれまでに身に付いたものはゼロにはならず、例えばお箸の持ち方を矯正した時でもどこかに影が残っていてふとした時に戻ってしまうことってある。ここ1番という大勝負になったときに昔からの習慣がポット出る。だから理想はここまで持っていきたいけど今は手前のここで我慢しよう、また次の年もう少し進んでここで我慢しよう、とそうやって辛抱強くやっていかなきゃしょうがない。自分の思っていることの10分の1しかできなかったとしても納得しなきゃいけない。10分の1が9分の1、8分の1にだんだんと近づいていくことを夢見て続けていく。選手とコーチの両方がそういう心を持ってやっていればいつの日かもっと近づける→真央ちゃんとの取り組みについて。本当に根気強くふたりで取り組んでいたのだなあと感じる語りでした。









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