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初代スプラトゥーンの思い出: 10年目の回顧録

これは何?

  • これはポ鯖8周年記念ゲーミングアドベントカレンダー5日目の記事です。

  • 4日目の記事はLeiriaさんの生き残った近接バトロワ、NARAKA: BLADEPOINTでした。日本だとあまりプレイされていないものの、海外で高い人気を誇る"近接バトロワ"の紹介、そしてNARAKAがバトロワゲーにありがちな課題をいかにして克服しようとしているのかを考察しています。通常のバトロワ中に、選択肢として出てくる「通常のマップからアリーナに移動し、勝つと物資ゲット。負けるとあと5分でチームが全滅するデバフがつく」はシンプルに面白い。絶対に蛮族が発生する。

  • さて本題。この記事では、私がWii Uの初代『スプラトゥーン』の思い出話をします。2年でだいたい3,500時間くらいプレイしました。

  • これは詳細な分析とか事実の確認とか裏取りとかはデータの整合性チェックとかそーゆーマジメなことはほぼしておらず、主観的な思い出話です。ほぼ書きっぱなしで未編集なので、色々とご了承ください。

  • 2024年時点では発売からはまだ9年ですが、初公開の瞬間から起算して10年目です。

2014年6月11日午前2時: (後から理解した)衝撃

2014年6月11日の午前2時。社会人1年目の深夜、今は亡きゲームイベントE3をiPhone 5Sで見ていた時のこと。『スプラトゥーン』の映像が初めて公開された。

最初に見た時の感想は「かわいらしいキャラクターやアートワークをベースに置き、FPS/TPSにおける前線概念の難しさを解消するかたちでマルチプレイヤーの対戦ゲームを再解釈したんだな」という感じだった。あっ、そういうことやっていいんだ、みたいな。

当時はぶっちゃけFPS/TPSもやったことはなかった(64のゴールデンアイすらプレイしていない)が、どうも「銃で人の頭を狙って撃って殺すゲーム」「なんかいかついおっさんばっかり出てくる」「VCの治安が悪い」くらいしか知らなかった。せいぜい『Hotline Miami』とか『はかいマン』くらいしかプレイしたことがない。

なんでこういう感想になったのかというと、大学時代にいた先輩と「任天堂はスマブラとかがそうだけど、歴史があるジャンルの再解釈とか変奏がうまいよね(意訳)」みたいな話をした記憶があり、E3のトレイラーを見た時に逆算して"そういうこと"になったんだと思う。結論の先取り。

いちおう、この見解はだいたい合っている。が、シューターゲーを全くやっていないということだけは揺るがない。「外縁から当事者の語りを聞いて芯を理解した気になる」クセは昔から変わらない(そしてあんまり大きく外さない程度にはちゃんとしているのもタチが悪い)。

スプラトゥーンシリーズの公式Webサイトより引用。実は1割しか完成していなかったってほんとですか?
スプラトゥーンシリーズに9,000時間を費やした人物による本作への初めての言及

2015年5月9日〜10日: 完成披露試射会を満喫する

これだけ言っておきながら、なんとWii Uもスプラトゥーンも買うのをギリギリまで忘れていた。完成披露試射会だけには間に合うようにWii Uを店頭で探したら、マリオカート8とのセット版しか販売されておらず、仕方なくそれを購入した。ヨドバシアキバだったと思う。

結果的にマリオカートは一度も起動されないまま、このWii UはスプラトゥーンとGBAFE(封印の剣と烈火の剣)をプレイするための専用機になった。ヘクハーは名作。

スプラトゥーンシリーズに9,000時間を費やした人物とは思えない初動の遅さ

5月9日・10日に行われたオープンベータテスト、もとい完成披露試射会は「とにかく楽しかった」こと以外はほとんど覚えていない。確かステージはシオノメ油田とハコフグ倉庫だった。

シオノメは対戦ゲームにあるまじき激ヤバステージ(ヤグラもかなり許せないが、ホコのステージ設計はシリーズ通して間違いなく最低だ)、ハコフグは初代のゲームバランスにおいては「すぐ試合が終わる」「ちゃんと3レーンある」「最初からある」etcで愛されるステージとなった。

2015年5月~6月: 夜な夜なフレンドと殴り合う日々

信じがたいことだが、スプラトゥーンの発売直後にはレギュラーマッチ、つまりナワバリバトルしか存在しなかった。当時のガチマッチ(今ではバンカラマッチとXマッチに相当)も、プライベートマッチも、「フレンドとオープンマッチ」、当時のタッグマッチも、ない。必然的にレギュラーマッチをプレイし、Twitterやスプラトゥーンで知り合った人の部屋に合流して(あるいはそれらフレンドに合流されて)遊ぶことになる。

これがとにかく楽しい。自分にとっては初のTPSということもあり、試行錯誤の日々だった。ジャイロ操作だから全員エイムがうまくできず、横並びのスタート。それゆえかダイナモローラーやスプラローラーコラボが猛威を振るったり、最初期は金モデことプロモデラーRGが最強のブキだとされている時期もあった(とにかく塗れるしファイナルクリスタルダストもある)。

とはいえ、きちんとした環境理解やメタゲーム、エイム練習、「強いブキは何か」云々はあと。何よりも「帰宅後に知り合いや友人とオンラインで遊ぶ楽しさ」という、自分が中学あたりでMMORPGを通して得たあの体験が復活した。とにかく夜を徹して遊んだ。

楽しそうですね。実際楽しかった。

2015年7月2日: なかイカ事件

さて、こういうふうに初代スプラトゥーンで印象的だったことはたくさんあるのだけれど、はじめたてのころにあった事件について語りたい。なかイカ事件である。

(@mizchiより引用。個人的には「メタルイカソリッド」という呼び名がお気に入りだった)

発売から約1ヶ月後、「まあこのゲームはそこそこやったな」と思った我々の前に現れたバーサーカー、なかイカ。彼は今まで戦ったチャージャーたちとひとつふたつ次元が違った。

確かステージの片方はBバスパークだった。なかイカが中央のタワーに立った途端、頭を胴体を足をセンプク状態で壁からはみ出したところを要するにあらゆるところをリッター3Kで撃たれる。そしてリスポーンに送り返される。「強いチャージャー」に始めて出会った瞬間だ。

(@pastakより引用。マジで強かった)

とはいえ若かりし日の私の成長速度もなかなかで、数時間一緒にプレイした結果、徐々にクイックボムの嵐を乗り越えて近接で倒す方法やスーパーショットの発動を隠して当てるなどの対策を覚え、いかにしてチャージャーの圧力の下で戦うかを身に着けていった。射線の切り方、近づきかた、とっさの回避行動。なかイカのおかげで対チャージャーの基礎が身についたと言っても過言ではない。ありがとうなかイカ。フォーエバーなかイカ。

後にはかのねくらと同じ窓で切磋琢磨していた凄腕リッター使いとも出くわすのだが、それはまた別の話。

2015年秋: トーナメントシーンへの接近

このあたりからチームプレイや大会を意識し始めた。ちょうどこの時期に見た、たいじ・りょぼ・しゅーとん・ギコUKイトリ・ぷらんと・むりぽ・CawによるGSの試合は強烈に覚えている(確かiOS主催の第二回トーナメントだったと思う)。あとちょっと前の配信者総イカ戦とか。

GSは復短スプラローラーコラボのむりぽがビーコン経由で時間とヘイトを稼ぎつつ、Cawのスプラスコープで塗りと圧力を供給し、イトリとぷらんとがスプラシューターコラボ2枚で制圧する。スプラトゥーン後期の無敵・復短全盛期ではとても考えられないような編成だが、その前にもやかわ・でんちゃん・ダイナモン・らふいたによるNIS(No Invinsible, No Shield)が登場したことを考えると、まあアリだったのだと思う。

(※NISは無敵なし・シールドなしという初代スプラトゥーンにおける事実上の縛りプレイ、おまけに視界=情報を一番取れるはずの後衛チャージャーが聞き専という制約のもとで勝ちまくり、一時代を築いた。かのダイナモンを輩出したこのチームは、解散のきっかけになったクリームパン事件も含めて語り草だ)

2016年秋ごろのスクリーンショット。確かミックス杯の練習で戦ったはずで、さすがに強かった。これは対抗戦でたまたま勝った2試合のうち1試合で、スコアが良かったから撮影した。なお、ランク46なのはWii UのHDDが壊れてデータが消し飛んだから。

他にもWe have come to make memoriesもといおもひでとか、3〜4名が無敵持ちの進撃のグレイガとか、かのSKやドリームチーム文明開化とか、あといろはとかfeとかANAとかBMTとかゴキジェットとか.RegenとかプリちくとかAAとか、ヘイト取ってひたすらやられ続けるスシコラとうぽーをうまく利用して勝つdecoyTKとか、ふーみそんによるメタ編成とマクロのじゅにっことか、凸チャーちょりを擁するEXCALIBURとか、ステージごとに最適なメンバーを入れ替える6人編成のAnother(※初代、同名の強豪チームは2にも存在した)とかもあるけどまたそれはどこかで。

競技プレイまわりでいうと、「当時も1,000人が参加する超大規模オンライン大会(SyCup)があった」って言っても、もう誰も信じてくれないんじゃないだろうか。いや、確かにそこにあったんだけど。

2015年冬: コミュニティの形成

この頃はすっかり「知り合いの知り合い」経由でタッグマッチやプライベートマッチを頻繁に遊ぶようになり、Twitter上でクラスタが形成されていった。この結果チームNKMが結成され、NKMを含む複数コミュニティを横断する形で生まれたのがポ杯ポ鯖である。

ポ杯の初期は基本的に企画・運営を自分一人ですべて担当し、いろいろと参加者の皆さんの善意と努力に頼っていた。運良く当時は若く気力を持て余していた人々がいたこともあり、結果としてエンジニア・技術系の大学生・ゲーマーの寄り合い所的なコミュニティができた(作った、ではなく、みんなのおかげでできあがっていった)。このへんの経緯は非常に複雑なので、歴史語りはまたいずれ。

翌年の2016年6月8日、merinter19の手によりDiscordのサーバーが設立される。この「ポ鯖」は今もなお数十人単位でアクティブ。毎日の生活や技術、気づきにノウハウ、様々なエンタテインメント・コンテンツ、多様な知識と見解がシェアされ、そしてバカ話が繰り広げられるコミュニティになっている。何かとありがたい。

実は2019年まで明文化されたガイドラインもなかったのである。ある程度ゲーテッドだったことに加え、皆さんの善意の成り立っています。ありがてえ。

日々投稿されるお子さんの成長記録も楽しいし、株価で一喜一憂したりする姿もあれば、この前見た映画、行ってきた旅行先や美術展の感想、最近の悩み、Swiftの技術的なツッコミ、生成AIのワークフロー組み、エトセトラエトセトラ……。とにかく多様な人生がある。地域の回覧板みたいで楽しい。

なお創設者のmerinter19に加え、「技術」担当のdolpenと並び、わたしもポ鯖の管理者の一人ということになっている。三権分立で「自由」担当らしいが、まあどういう意味かはお察しください。

ポの由来は抹茶氏とかに聞いてください。ポはね、ポ。

2016年1月10日: 第2回ウラ甲子園優勝

これは自分がスプラトゥーンをプレイしていて勝ち取った、唯一の大きめの大会実績と言っていい。ヒッセン使いとして知られていたきょろ、別の大会経由で知り合った.96ガロン使いのはたれ、それから今はもう連絡も取れないリッター使いのひかりんと参加。128チームが参加する大会の頂点に立った。なぜかはたれちゃんがわかばシューターでわたしが.96ガロンデコだったんだけど。

優勝した時のツイート。決勝戦の確か1本目、アロワナモールは自分の抜けのおかげで勝ったことだけは強烈に覚えている。当時のラストスパートはみな一様に弱ギア扱いであった。

最後の試合、ハコフグ倉庫で終盤に連続して相手を倒したときの「ワンやった! ……ツーやった!!」はかなり力がこもっていたし、試合終了後のきょろくんの「優勝いただきました〜」がいい感じに気が抜けてて良かった。大会主催のしげるさんは元気にしてるといいのだが。今は王冠常連であるイカオレンジジャムさんには練習相手として何度もお世話になった。

これをきっかけにトーナメントシーン、有り体にいうと「勝つため」のゲームにのめり込んでいくのだが、これは自分の強さを確立し自信を得ると同事に、強さゆえに増長し傲慢さが全面的に顔を出すきっかけにもなった。

多少の時間が過ぎると、少なくとも競技プレイにおけるトップ層の末席で戦えるくらいになってはいた。しかしそれとはまた別の話として、自己の肯定感を能力からしか得られない人間は、それを制御できなければ——たとえば、徳でも道でもマナーでもルールでもなんでもいいのだが——隣人としては最悪の存在だ。今は多少マシになりつつあるが、少なくとも当時の自分にあまり近寄りたくはない。いまの友人もそう言っている。

このあとは気持ちが吹っ切れたのか、2016年2月の深夜にカンストしている。

Twitterに残っている動画では「終わった、終わった終わった」と言っている。ようやく、という感じだったんだろう。大会優勝したチームのメンバーもカンストは1人しかいなかった。

この後半年くらいはひたすら勝利のための戦いに打ち込むのだが、それは省略しておく。

2016年10月20日: Nintendo Switchとスプラトゥーン2

さてその後の紆余曲折、すなわち大スピコラ時代や大復短ステジャン時代を経て、2016年10月20日。コードネーム「NX」、もといNintendo Switchが発表された日である。

このツイートが10,000RTされてないってマジ?

ハードウェアやプラットフォームとしてのSwitch(そして後継機)についてはさんざん語られているので、ここでは紙幅をほとんど割かない。当時のわたしたちにとって重要だったのは、とにかく"アレ"があるかどうかだ。

そして、それはあった。

ハハーンハハーンイェー(当時リアタイで発表動画を見ていた人にしか伝わらない気がする)

もちろん『スプラトゥーン2』である。

これにてWii U版を遊び続ける動機がやや薄れはじめていたわたしたちの関心は決定的にNintendo Switch、というか『PUBG』や『Fortnite』といったバトルロイヤルタイトルに移り、やがてはMOBAの金字塔である『League of Legends』をコミュニティの多くの人々が遊び始めるのだが、それはまた別の話。

長いお別れ

いったんこれで当時の思い出話は終わり。

続きは最近のこと。2024年4月、初代スプラトゥーンのサービス終了直前にプライベートマッチを実施したら、意外とみんなWii Uを売却済みで集まらなかったりした。これはコミュニティ内の人が声をかけてくれたおかげで無事開催できた(この件はワカノさんといとのこさんに感謝)。

シオノメ油田にて記念撮影。もうキャプボが手元にないので直撮りしている。
遅れてやってきた青春に別れを告げる。

今もスプラトゥーンが好きだ

「当時知り合った人たちとは今はどうしてるの?」と言われると、まあなんだかんだ『スプラトゥーン3』をやっていたり、違うゲーム(特にLoLとスト6、フロムソフトウェアの作品、そして謎のインディータイトルを大量に発掘してきてみんなで遊び倒している)をプレイしていたり。

むろんゲームの話だけではなく、生活や家庭、お金、健康、食べたもの、テクノロジー全般、デバイス、家を買うかどうか、家具選び、ガーデニング、映画、ゲーム、思想、まあいろいろ……とDiscordで音声なりテキストなりで話している。地域コミュニティみたいな空気だ。物理的に距離が近めな人とはときどき遊びに出かけたりする(もちろん、コミュニティを去った人もいる)。

さて、「じゃあ、あなたは?」という質問には……

まあ、なんだ、その、結局、わたしは今もインクの中にいる。プレイ時間は格段に減ったとはいえ、まだまだイカ世界から離れられそうにない。

2024年の今は、「勝つため」というよりは、「誰かと一緒に遊ぶため」「対戦を通して成長するため」「この世界の息づかいを感じるため」それから「暇つぶし」としてプレイしている。

少なくとも、インクは初代スプラトゥーンの時よりも、極彩色にビカビカ光ってはいない。世界もずいぶんゆっくりになった。けれど、ようやく、それなりに良い色に染まって見える。そんな気がする。

おまけ: 盛り込みきれなかった思い出たち

イカ(※誤変換ではない)、ダイジェスト形式でお送りします。

@geekdrumsより引用。みんなでこういう悪ふざけをしていた時期もありました。ギア的には多分一番右が私のはず。

ウラ甲子園のチームメイトと練習していたらチーターに当たった回。動画はそのチームメイト撮影。全員リアクションに品がない。初代Splatoonはだいたい3,500時間ほどプレイし、最後のほうに4,5回程度チーターと出くわしている。多分これが最初で、あとは「超高速で転がしてくるダイナモローラー」とかそんな感じ。さすがに解析が進んだのか、2024年には全塗られやクイボを1F間隔で連射してくるチーターにも出くわした。こんなのネルス像がなくてもイカ世界が崩壊してしまう。

タッグマッチ、通称タグマで勝ちまくりチョーシランキング1位を取った回。いわゆる無敵SPの全盛期で、マヒマヒモズクエリアで21連KOという驚異の戦果を上げている。別の回のはずだが、チョーシランキングにらふぁクラリーと一緒に載ったのはいい思い出。
初代の時に一瞬だけ交流があったランタナえすいーさん。当時はスプラローラーコラボで自分で設置したビーコンに飛び、落下中に横振りを当てるテクを実戦投入していた。ヤバイ。今もスプラトゥーンを続けており、まれに出くわす。これは3で撮影。 
2016年夏、スプラトゥーンで知り合った友達と、「ポケモンGO、江の島にラプラスがいるんだって」という噂を検証するために江の島に行った。けっきょくラプラスはいなかったけれど、いい思い出だ。

おまけのおまけ: 「みりん ああ品 ふっつんつ」って何?

Q: 「みりん ああ品 ふっつんつ」って何?
A: バンカラ街の路地裏側、エビザベスが置いてある店のすぐ近くにあるお店のこと。フェスの時にだけ開店している。

看板が「みりん ああ品 ふっつんつ」と読め……そうなので、そういうことにしている。右から読んで「つんつる子」の可能性もあるが、すると左の「みりん ああ品」は何になるのか。いや、「みりん ああ品」もすでに意味がわからないのだが。

うどんや団子と思しき食べ物を売っている。有識者からのさらに詳しい情報求む。

確認できる限りでは最古の「みりん ああ品 ふっつんつ」ポスト。たぶんわたしがこれを読んで「語呂がいいな」とでも思ったのだろう。5-7-5のちょうど7(3+4)-5っぽい感じ。何にでも組み合わせられる。

そろそろ記事も終わりです
みりん ああ品 ふっつんつ
(了)

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