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ため息俳句 花壇

 森林公園の大部分は林と森である。梅雨時の今は木々は葉を旺盛に茂らせて緑色が膨張し続けている。
 野草と云えば、とても地味でオカトラノオ、ホタルブクロ、ハンゲショウ、オオバジャノヒゲ、ウツボグサ、ギンバイソウ、オオバギボウシなどが、HPでは上げられているが、華やかに咲くものではない。
 しかし、園の中央部の花壇まですすむと、一斉に色彩があふれだすのだ。

 以前は素っ気なくハーブガーデンといわれていたエリアは、この頃は「カラーリーフガーデンいろはの庭」という小癪な呼び方をするように変わったらしい。名前と同じく、その庭園のデザインも大きく様変わりしたのだ。

 そこから更に大きな園路を北口方向へたどると道の両側にボーダー花壇が見えてくる。長さは三百㍍に及ぶという。何時にこの道を歩いても、その四季折々に変化する花々の様に、ただ綺麗だ美しいというだけではすまされないものを感じさせられる。
 諸行は無常というが、一本の草花にも栄枯盛衰の相が現れるものだ。ましては、幾種類もの草木が芽を吹き、花を咲かせ、枯れてゆく。それは、一つの迫力ある変化である。

 「いろはの庭」もボーダー花壇も、大層丁寧に管理されていて、年々植栽される草花も変わってゆく。この公園は、国営公園の第一号であるという、今年開園五十周年とか。そんことを知ると、そこはかとなくこの花壇を守る方々の矜恃のようなものを感ずるのだ。
 自分がこの公園に通いだしてかれこれ10年ほどになる。リタイヤ以後である。
 実を言えば、妻が熱心に庭いじりをしていることさえ特に気にも止めなかった。花を見ると云えば、それはお花見のことであり、絵に描かれた花を観賞するというような、今思えば巫山戯た話だったのだ。
 
 この公園を歩く目的は、いうなれば健康増進、心気のリフレッシュが目的であったのだが、通いはじめて何度目かで気持ちに変化があった。
 何がどう変化したかというと、うまくいえそうもないが、・・・・、森を歩くのを、花壇の前に佇むのを楽しいと感じ始めたのだ。なんだかわくわくした。冬になって枯れの森に落葉を踏み歩く時も、花も緑も消えはて殺風景なった花壇の眺めにも、面白みを感じたのであった。

 多分、自分が生きてきて見てきた花々を仮に百としたら、おそらくこの10年ほどでその半分ほどの花に出会ったのではないかと思うくらいである。


花壇る聖者いませり泉鳴る  空茶