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ため息俳句番外#30 賀状

 石原八束の句である。

ひとひらの紅き賀状のみ卓に

 桂信子はこうだ。

賀状うずたかしかのひとよりは来ず

 これは、「現代歳時記」より引いた。この歳時記の編者は金子兜太・黒田杏子・夏石番矢、手元にあるのは1997年の第一刷版である。

 両の句、共に思わせぶりだ。
 共に一人の差出人について想いをこめている。
 作者にとっては、特別な人なのだろう、それがどのような関わりをもつ人かは読者にはわからない。
 実在の誰かか、虚構かも不明だ。
 でも、年に一度送られてくる年賀状にまつわる心の機微としては、大抵の人にあることで、表現の巧みさは云うまでも無いが、それはそれとして、ここ盛られた感情はそう目新しいものではない、いいようによれば、陳腐だ。このお二人が、優れた俳人であることは重々承知であるが、そのような方だってこうなるのだ。
 陳腐というのは、自分は悪いことでないと思う、それはある意味で普遍的であるということだ。
 だから、読者の共感を呼ぶことができる。多くの人が「分かる分かる」と頷くのだ。
 一般に俳句詠みの方は、自作を陳腐だといわれれば、傷つくか立腹されるのであろう。
 だが、句の表面のことばの彩を剥いでしまえば、案外単純で平凡な感想でしかないということは、よくあることではないか。
 別な云い方をすれば、月並俳句と評されかねないのかもしれない。

 今年も、凡庸な己に、折に触れことに動かされて湧いて出る感情をぽつりぽつりと書き留めて行こうと思う。まず、自分が感じていることを大切にせねばならないと思うのだ。
 問題は感性の劣化であると思っている。つい、ことばを飾りつければ、なにごとか言っているかの錯覚に陥いってゆく。これからの年々は自分にとっては全身的に衰えてゆく時間である。脳みそもますます耄碌する。
 現実世界は激しく変化しているのに、そんなことは何時か見てきたこと、ありがちなことだよと、わかった風にやり過ごしてしまうとしたら、やはりまずかろう。
 「感動」が句の根幹であるとどなた様もおっしゃることで、今更ということだが、年寄の自分には案外難しいのだ。

 あけましておめでとうございます。

        ※

 テレビでは正月特番に浮かれているが、例えばXのツイートから能登半島地震の実情がわかる。もちろん、Xのツイートの九割方は糞だから、まっとうなものを見極め選ぶことが大切だが。