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ため息俳句番外#38 芭蕉の墓

 過日の琵琶湖周辺への旅では、noteでこんなことを始めたことでもあるし、芭蕉のお墓参りをしたいと思っていた。
 琵琶湖線膳所ぜぜ駅から10分ほどで到着できる義仲寺に芭蕉は葬られている。

 現在芭蕉終えんの地とされるのは、現在のいい方では大阪市中央区久太郎町3丁目 御堂筋緑地帯内である。ここにあった花屋仁右衛門の裏座敷で51歳の生涯を終えた。そこから何故に亡骸を葬るために琵琶湖の畔膳所の義仲寺まで移動したのかというと、芭蕉自身の遺言であったとされる、そう「花屋日記」にはある、・・がこの日記は偽書である、ややっこしくてごめん。

 義仲寺とは、その名ですぐにわかる通り、木曽義仲の墓がある寺である。義仲寺は、源頼朝軍に追われて粟津で最期を遂げた木曽義仲を葬ったことから、義仲終えんの地と言われている。その義仲の墓に並んで、芭蕉の墓はある。

 この義仲寺には30年いや40年か、そんな以前、なぜか参ったことがある。今回、膳所の駅を降りてガイドブック通りに歩いたつもりが道に迷った。そこからして、おぼろげな記憶がすべて上書きされてしまった。その時は、義仲と巴の墓を尋ねてきて、そこに芭蕉の塚の存在を知ったのだ。自分も時の流れの中にいたのだ。

 義仲寺にと遺言したのは、芭蕉が木曽義仲贔屓であったからかも知れないが、この境内に無名庵という庵がある。芭蕉は、この庵にたびたび滞在して近江や京の門人たちと交流している。例えば、こんな句。

志賀唐崎に舟を浮べて人々春を惜しみける

行く春や近江の人と惜しみける (元禄3年3月)「猿蓑」

 とにかく、どのような芭蕉の思いによるかはわからないが、ここに墓はある。

 さて、この自然石に「芭蕉翁」とだけ刻まれた石碑を墓と呼んでいいのやらと、その昔ここに訪れたときに思ったものだが、墓なのだ。
 支考の記録によると、「湖南・江北の門人おのおの義仲寺に会して、無縫塔を造立す。面に芭蕉翁の三字をしるし、背には年月日時なり。塚の東隅に芭蕉一本を植て、世の人に冬夏の盛衰をしめすとなり。」とある。やはり、お墓なのだ。
 

 とにかく、芭蕉の墓に詣でたのだから頭を垂れ手を合わせた。
 そこで心に浮かぶことがありそうなのだが、頭の中は空白で、感慨めいた
ものなんてまったくない。俳聖芭蕉の墓前でだ。
 それでも、ふと思い出したのは、子規はたしか自然石の墓はご免こう被ると、云ってなかったかな、そんなことを思った。
 つまり、自分は芭蕉の墓の見物をしただけのことであった。偉大な芭蕉の墓に、祈る言葉も手向ける言葉も、こんな己に有ろうはずがないのだ。
 そうして、しばらく広いとはいえない境内というか、庭というかに留まって、昔は琵琶湖の渚も近くまであったのだろうか、なんて思いつつ、駅へ戻っていったのであった。
 それと、翁堂の裏の保田與重郎の墓は、記憶の中ではもっと巨大であった。それは、あの当時、自分が保田に関心を寄せていたせいであったかとも思った。