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#7 とべないほど血を吸うて 山頭火

 「十七文字徘徊」とか看板を挙げているが、特に定型至上主義ということは、全くない。ここの「十七文字」という語は、「俳句」というジャンルを意味するので、有季、無季、定型、自由律、どれであろうと「俳句」であれば、よいのである。というより、表現者が、これは「俳句」であると意図していれば、そのように受け止めるのが当たり前のことだ。

 種田山頭火については、俳句好きな人であれば自分などよりはるかによく知る人ばかりだろう。
 
 標句はこうである。

とべないほど血を吸うて蚊のたちまち打たれた  種田山頭火

 昭和15年の作である。
 
 同年の作に、こういう句もある。

 自省

蠅を打ち蚊を打ち我を打つ

 この二つの句を並べると、生きているのがつらくなる気がする。
 口語自由律というのは、基本的に会話語に近いのだが、ただの日常の会話ではない。詩の詞だ。人の感情に切り込んでくる強度が文語定型と違う。ストレートに来る。勿論、その強度で文芸としてのクオリティーが保証されるわけではないが。
 この句、大抵の人なら、だいたいわかるのだ。わかりやすい。人によれば、教訓的に意味をとらえてしまう人もあるかも知れない。あるいは、仏教的に。そこいらで、通俗的と云う人があらわれそうか。

 俳句なんてなんの関心もないころ、山頭火について知ったのは、多分永六輔のエッセイかなんぞであった。図書館であったろう、山頭火の句集を手にして仰天した。

水を前に墓一つ   昭和5 
暗さ匂へば蛍    昭和7
おとはしぐれか   昭和7

 俳句というのはもともと短いものであるが、もっと言葉少なの「俳句」があったのだと、びっくりした。と同時にたちまち捉えられた。

五月雨や大河を前に家二軒  蕪村

 と、「水の前に墓一つ」を仮に比較すると、山頭火がこの蕪村の句を知らなかったはずがないが、発想が似ているからと云って、どうこう云うのは、好かない。それに、俳句としてどちらが優れているかというようなことも、自分にとっては、関係ない。

 さて、蕪村の句は、本業の絵画の世界で描かれるようなスケールを感じさせつつ、大自然のなかに生きるちっぽけであるが、確かな人の営みさえ見えてくる。肩を寄せ合うように二軒の家があるのがよいのだ。
 それに対して、山頭火の「水」は、流れではない、停止している。大河など論外だ。ただの水たまりぐらいにしか見えてこない。墓と云っても、ほんの形ばかりの小さな墓、あるいは朽ちかけた木の墓標、忘れられてしまった墓。もっと、妄想的に読めば、行路人の行倒れが埋葬された野の片隅の墓。水は、手向けの水であれば、幸いであるが。
 二つの句をみて、どちらが今を生きる自分に切迫感を感じさせるかというと、山頭火のぶっきらぼうな一句の方だと思う。梅雨時の激流となる大河であるとしても、人々は川とともに生きる、生活の隅々まで川の恩恵が行き渡る、そんなことは今の自分らには望むべくもない。
 今の時代の特色は、容易に孤立してしまうことだ。きっかけとかいうものさえ不要だ。人として生きていたら、ある日気づくとまったくの孤立無援の独りになっていた。そんな社会である。であるから、「水の前の墓一つ」の一つは、以前は、一人。
 いい気なっていたら、蚊の如く打ち殺されることだってあるだろう。
 
 定型だろうと、自由律だろうと、そんなことは自分という一介の読者としては、どうでもいいのだ。本当の声を聴かせてくれることばこそ求められる。