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#12 行水や美人住みける裏長屋  子規

 こう暑くては、風呂で汗を流すのが一番の楽しみだというと、爺さん臭いといわれそうだが、本当にそうだ。曲がりなりにも衣食住が満たされ、その上、毎夜風呂につかることが出来る隠居の日々に何の不足があろうかと、お天道様は云われるだろう。まったくだ、まったくだ。
 
 その風呂であるが、この頃のように家々に内風呂があるなんていうことは、考えられなかった。自分がまだはな垂れ小僧の頃まで、他の家の風呂にいれてもらう「貰い湯」の習慣は残っていたという記憶がある。

 さて、子規の句であるが、こっちは行水。

行水や美人住みける裏長屋  子規


 たわいも無い句である。
 まったくもって「掃きだめに鶴」、貧乏人の集まる裏長屋にも美人あり、こんなところでも、住めば都棄てたものじゃないぜ。さてさて、汗を流してさっぱりしよう、ほれ行水だ。
 というのが、小生の読みだが、どうであろう。

さて、こちらは虚子。

行水の女に惚れる烏かな  虚子

 この句は、漱石の『吾輩は猫である』に登場するのだが、明治38年八月の「ホトトギス」に掲載されている。小説中でも虚子が詠んだとされているので、漱石がこの句を『我が輩は猫である』に拝借したのだろうが、そのいきさつは自分にはわからない。この『我が輩は猫である』も「ホトトギス」誌に連載されたものだから、仲間内の悪ふざけのようにも思えたりするが。
 さて、小説のなかで出来事は省くが、作中で寒月君は、この句をこんな風に解説する。

実を云ふと惚れるとか惚れないとか云ふのは俳人其人存する感情で烏とは没交渉の沙汰であります。然る所あの烏は惚れているなと感じるのは、つまり烏がどうのかうのと云ふ訳ぢやない。必竟ひつきよう自分が惚れているんでさあ。虚子自身が美しい女の行水して居る所を見てはつと思ふ途端にずつと惚れ込んだに相違ないです。さあ自分が惚れた眼で烏が枝の上で動きもしないで下を見つめて居るのを見たものだから、はゝあ、あいつも俺と同じく参っているなと癇違かんちがひしたのです。癇違ひには相違ないのですがそこが文学的で且つ積極的な所なんです。自分丈感じた事を、断りもなく烏の上に拡張して知らん顔して済して居る所なんぞは、・・・・

「我が輩は猫である」

 この寒月君の解説に寄れば、「惚れる烏」という表現は、虚子の心理の投影であるということになる。行水する女を烏が見下ろしていた。それ事実をだけを云っているならまだしも、それを惚れる烏と見なしてしまうことが、そこが文学的なのだという。
 この「理屈」、案外あちらこちらに当てはめてみることができるように、思えてくる。どうだろう。

 また、締まりの無い文になってしまった。