#8 死なうかと囁かれしは蛍の夜 真砂女
六月一日のことであるからもう二週間程前のことになるが、市内某地区の「蛍まつり」にでかけた。その地区を流れる用水路で蛍が飛ぶのを見ることができるのだ。祭りはたった一晩のイベントであるが、蛍はその前後の十日間ほどは見ることができる。しかし、そこはお祭りゆえに、気分が浮き立つものだ。
「蛍まつり」であるから真っ昼間から始まるはずはなく、午後6時よりということで、それでも二〇分前には到着せんと車を走らせたが、既に広い市営グランドの駐車場は八割方埋まっていた。
普段は、人もまばらな地域であるが、まつり会場は多くの人でごった返していた。キッチンカーやら夜店やらも出ている。子供達が走り回る。気の早い老人たちは蛍が出る用水沿いの道をうろうろする。若いお母さん達が華やぐ。
だが、蛍は明るい内は光らない。蛍の保護活動している案内の人々は、八時頃まで待たなければねと、なんだか申し訳なさそうにおっしゃる。
そういうわけで、空が暗闇に沈み始めた七時半近くになって、ようやくに、ぽつりぽつりと光が見えてきた。
そうしている内に、あちらでもこちらでも光り始める、すると淡い小さな光が草むらからふわっと宙に浮き上がった。
そうして、次々に蛍が湧いてくるかのように漂うように飛び交い始めた。
子供大人ももう感嘆しきり。中には手のひらで光を受け止めて、これが蛍なのねと、感じ入るお嬢ちゃんもいたりして、誰も彼もが、このちっぽけな命の光を感じてか、なにやら優しい気分に浸っているように小生には見えた。
もの思へば沢の蛍もわが身より あくがれ出づる魂かとぞ見る
と詠んだのは、和泉式部であるが、蛍を自分の身からさまよい出た「魂」ではないかと見たというのだが、いくらもの思いに心が狂おうと、どことなくナルシストのことばのように自分には思える、のは脇におくが、蛍を「魂」と見たというのは、ロマンチックではあるが、他方不気味な気もする。
ともに、民間伝承であるが、蛍は美しいが、同時にその美しさに懼れのようなものを感じないわけにはゆかない気がする。
そうして、誰にしも覚えがあろうが、美しいものへの懼れは、しばしば憧れへと変わりやすい。
美しいものはさまざまに人の心をそそのかすものだ。時にはこんな風に。