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空き家銃砲店 第六話 <肖像>

仏間からでようとするとき、見えるものが二つある。開き戸の横の小さな玉で縁取られた丸い鏡と、川端康成の書である。鏡は、店に出る時に洗面所まで行かなくとも身づくろいすることができるように。

書の方は何のことはない、額受け金具を取り付けられる壁が一か所しかなかったのだ。川端康成はノ―ベル賞を受賞した2年後の1970年に穂高に招かれ、滞在していたのだと言う。その際に地縁を頼って書いてもらったと聞く。2年後に川端は亡くなっている。

週刊文春を定期購読していた祖父は文化人も好きで、安曇野出身の編集者兼評論家兼作家に手紙を書いていたらしい。返信が状差しに残されていた。その作家は1977年年ちょっと面倒なことを引き起こし、話題になった。

祖父は狩猟や写真が趣味で、祖父の撮った写真は大量のアルバムに納められ、祖父の両親の写真や絵は一切飾られていなかった。

唯一の例外は私が三才の時の写真で、浴衣姿の祖父、半袖のワンピースの祖母、黒縁の眼鏡の父、むちむちした私、庭を背景に撮った小さな一枚が洋間のピアノの上に飾ってあった。撮影者はおそらくは母だろう。このとき「芝がチクチクする」と言って歩かず、お盆の上にのせられて撮ったものもあるのだが、額装したのは父の腕からずり落ちそうな私である。

一方、仏間でもあるので、ご先祖様の肖像画が仏間に鎮座していた。一代飛んで祖父の祖父母のものだ。和服姿の由一(よしいち)と妻。今では両親の住む家に移され、祖父、祖母の写真と並んでいる。

おまけ

祖父の死後、祖母と母と私でこの部屋を訪れたことがある。板の間の上の引き戸を開けると、知らない写真店の封筒から現像後のネガフィルムの先が飛び出ていた。

背の低い祖母には届かない場所である。ピンと来た私は、袋ごと祖母に渡した。祖母と母は同時にフィルムをのぞき込み、かつての若い祖母の姿、ただし服をまとっていない姿、と対面したのである。


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