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空き家銃砲店 第九話 <洋間>

縁側の東端に扉があった。これを開けると森の絵が飾られた洋間がある。

中には店と同じ柄の一人がけのソファふたつと一枚板のローテーブル。横幅100センチもありそうなステレオ一体型のレコードプレーヤ―。脇に控えるのは小さなレコード入れ。

祖父のひいきは青江美奈だったと聞くが、遊びに行くといしだあゆみの「ブルーライトヨコハマ」が流れていた。私はのんびりとしたブラームスのワルツが好きだった。

部屋の奥にはくぼみがあり、スタンドピアノがおかれていた。まさに「応接室」で、いつもひんやりとした空気が漂っていた。このピアノの鍵盤は象牙でさわると素敵なさわり心地だった。

東京でマンドリンに出会い、その音色に惹かれた祖父は、曽祖父の「音楽は女子供がするもの」という偏見に縛られて、その道に進むことはできなかったが、つくり酒屋時代の家にこっそり部屋を作ったようだ。

ある日階段タンスを眺めていた母が、ふと思いついて、階段箪笥を登って行き、天井を押したら、なんと天井がはずれ、顔を入れたら屋根裏ではなく、小さいながらも畳のひかれた部屋だった。誰もおらず、机の上にマンドリンが置いてあった。人気のない部屋だったが綺麗に掃除されてあったと言う。残念ながら母はその部屋に二度と入ることもなく、祖父と話し合う事なく、家は取り壊された。

一方、音楽を習う、という事を禁じられた祖父は自分の憧れを母に移しピアノを習わせた。中学生になった母は人前で演奏し、「技術は上達したが、ピアノを楽しんで弾くことができない」とはっきり分かり、それきりピアノをやめた。

祖父の遺産を手にした祖母は洋間に新しくテレビを入れ、ピアノを西の土蔵に仕舞い、空いた場所に自分のベッドを置いた。どこからが孔雀の絵が現れて、壁に飾られた。

仏間には曽祖母の持ち物だっだと言う幼稚園児ほどの大きさの古めかしい人形たちがガラスケースに入れて飾られ、そこだけにわか博物館となった。

祖母はさらに居心地を良くしようと東南にあった小さな蔵と庭をつぶして、明るいサンルームを洋間の隣につくった。「暖かくていいでしょう」祖母と祖母の知人が喜び交わした顔を覚えている。

東南の蔵には結婚式で使われた食器やひな人形や五月人形。どれも漆や桐の箱、茶箱におさまっていた。内側にステンレスがはってある茶箱は本当にお茶屋さんからもらってきたらしく、ご近所にあるお茶屋さんの屋号が書いてあった。こうした中身は省みられることなく、ひっそりと西の土蔵や倉庫に移された。

東南の蔵と塀の間には1メートルほどの場所があり、ほとんどの季節は湿気てじめじめした空間だったが、そこは春になると小さなスミレでいっぱいのなった。冬と春を迎えた小さな庭。その落差が私はとても好きだった。

この洋間も7年後、祖母が二世帯住宅を建てるときに壊してしまって今はない。かつてスミレを愛した私も。


おまけ

私は単に象牙の手触りが好きだったのだが、それをピアノ好きと勘違いした祖父母と両親の方針により、姉妹でピアノを習うことになった。
それなりにピアノを楽しく学んでいたが、ある日突然、娘たちがさっぱり上達しないのに気がついた母は厳しい先生に替え、私はわすが一年で「技術も大したことない、ただのピアノ嫌い」になった。

その後ピアノと和解するまで10年以上かかった。ジャズ好きの夫と知り合い「サックスを練習してる。ピアノ、弾ける?」と聞かれたからである。幼い娘たちはピアノより、絵や工作を習うことを選び、ボーカロイドを始め音楽を聴くことを楽しんでいる。

肝心の象牙のピアノは祖母の死後、土蔵から日の目を浴びる。
しかし、土蔵に押し込められていた12年間にピアノ線がさび、修理しても音がなるかどうかわからないという。仕方なく専門業者さんにお願いをして、ピアノはこの家から去った。


1日1にっこり。 たまに違う「ほっこり」でないものも書きますが、よろしくお願いします。「いただいたサポートはノート内で使う」というポリシーの方を見習い中です。