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23/12/22 小満ん師の芝浜

昨日は仕事終わりで「遊雀印」へ。火焔太鼓持ってたの〜!そして、ダメ男っぷりが秀逸な芝浜でした。

その芝浜つながりで。

Xで20日(水)TBS落語研究会での柳家小満ん師の芝浜に悪態付いているポストを見つけて、自分でも驚くほどショックを受けた。20日は本当にいろんなことがあった日で、怒らねばならない(衝動的な怒りではなく、あえて怒る必要があると判断した)事案と、考え抜いた末に出した結論の報告、遊かりさんとのラジオ収録の3つが重なってしまって、疲れ果てていた。遊かりさんとのラジオ収録に関しては、私はただ、喋りのプロである遊かりさんにパーパー勝手なことを喋っているだけだし、毎週のことで予定していたことだから全く問題ないのだけど、怒らねばならない事案と考え抜いて出した結論報告の2件は、なかなかのパワーを必要とした為、ぐったりしてしまった。そんな時にたまたま目にしたポストが小満ん師の芝浜への悪態ポストだったので、精神的ダメージは通常の倍になってしまった。

当該ポストの方が「思ったことを書いただけ」的なことをポストされていたので(ダメージを増幅しないためにもう一度見に行ったりはしたくないので、記憶を辿る格好になりますが)私も思ったことを書いても構わないだろうと思ったが、Xはたくさんの方が目にするし、私のポストを読んで新たに傷つく人を産むのは、望むことではない。なので、ダイレクトには繋がらない文面で、自分の精神を落ち着かせることと、間違った認識をやんわりと指摘する目的でポストした。Xでの傷はXで癒したかったし、Xで書かれたことへの指摘は、Xの場でないと意味がない。

もう少し踏み込んだことをポストしたいところだったが、炎上しかねないと判断し、こちらに個人的な記録として書いておきたい。そのための場だし、誰かを責めたいわけじゃないということはご理解の上、読み進めて欲しい。

TBS落語研究会は、娯楽としての落語鑑賞を目的とする方には、時に堅苦しく感じたり、謎の演目選定だったりする場合もあるだろう。お客様に提供することを目的としたサービス業としての興行主が開催する落語会とは発足の経緯が違う。

落語研究会(らくごけんきゅうかい)は、落語の興行の名の一つである。1905年から現在まで継続している。純粋な商業目的でなく、理念を追求する運動体としての一面を持つ。

その理念の高邁さから、落語家たちにとって、出演することがステータスの一つになっている。通常、寄席や余興(営業)では、落語のほかにいくつか色物が添えられることが多いが、第2次以降の落語研究会ではそのようなことはなく、落語家1人1人の出演時間もたっぷりととっている。客にとっては、落語をじっくり聞くことができる恰好の場となっている。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

現在の落語研究会は第五次に位置するが、演者の修練を中心に据えた会であることに変わりなく、お客様を喜ばせること、儲かることが第一の目的ではない会であると、私は捉えている。もちろん、お客さまあっての芸だから、最終的な着地点として「世間に認められる」「世間に支持される」ことも大事に考えているはずで、お客様を蔑ろにしているわけではないだろうことも、付け加えておく。

今回のトリの芝浜の小満ん師が顔づけされたことに何か考えがあったと推察する。小満ん師は現在81歳。来年2月で82歳になる。長尺の噺を、落語研究会で演じるとなると、相当な体力を要することは依頼側も演者側も理解した上でのことだ。しかもトリ。精神面での負担も大きかったはずである。当日私は足を運ぶことが叶わなかったので、当日の小満ん師の高座の出来はわからない。該当ポストによると「えー」が70回を超えていたとのことだったが、言い淀みが多いことが不出来とは限らないし、ましてや稽古不足と断定するのは早計に過ぎると思う。スラスラと立板に水な語りほどつまらないものはないし、それは落語をお聞きになる方の大半の同意を得られるだろうと思っている。フラとか間と言われるそれは、それぞれの演者から出る独自のものであり、それが一体何に該当するのかは、受け取る側それぞれの感覚でしかない。人によっては言い淀みであるものが、他の人には深い思慮に感じたりする。今回の問題に正解がないのは当たり前である。

小満ん師は博識な方で、いろんなことをよくご存知だ。私の息子(現在、某大学院のフランス文学後期博士課程在籍)に堀口大学の資料を送ってくださったこともある。息子がもう少しフランクな性格なら、小満んさんと交流を深めて語り合うこともあっただろうと思うが、息子の性格が気難しく、いただいた資料のお礼を言った後、そう会話が深まることがないままコロナ禍になり、結局そのままになっていることが申し訳なく、気になっている。

いろんな若手の落語家さんから「小満ん師匠に習った」とか「小満ん師匠に習いたい」という言葉も頻繁に耳にする。小満ん師匠は若手に教えることにどれだけの労力と時間を使っていらっしゃるだろうと思ったりもしている。

そんな小満ん師や落語研究会への、的を得ない悪態にしか感じられないポストに、最初はショックを受けて辛かったこともあり、触らぬ神に祟りなしで行こう、無視が一番と思っていたが、丸1日経過した今日、やっぱりスルーしない方がいいだろうと考えを改めてポストした。小満んさん本人はXなぞご覧にならないだろうし、落語家さんの中に言いたいことがある人がいたとしても、お客さまである人には言いにくい。落語研究会の関係者も反論したくてもできないだろうし、そもそも無視して正解なんだけど、私みたいな立ち位置の人間がスルーせず、違うものは違うと表明しておいた方がいいかもなと、勝手に結論を出してこのnoteに書き、Xに繋げた次第だ。柳家小満んって、落語研究会って、そうなんだーと思う人がいても、別に困らないけど、モヤモヤするからね。

大きな声は通りやすい。大きな声で言ってるのに、知らないは恥ずかしい。見せられている側も恥ずかしい。あれは感想というより悪態である。客という立場だからこそ可能だと、無自覚に思ってしまう高みからのポストに感じている。ここに自戒を込めて記しておく。






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