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私の1/28のポストの件

落語界の出来事に詳しくない方が読んだらチンプンカンプンだと思いますが、
私自身の思考の記録、そしてXの私のポストに辿り着いた方に向けて、書いておこうと思います。

昨夜、私はこうポストしました。

これは、私が「落語会の主催者」という立場から表明したものです。鶴川落語会のアカウントでポストしても良かったのですが、炎上商法に受け取られるのも嫌だったので、個人のアカウントでポストしました。
正楽さんのことを持ち出したのは、師匠の死を利用したように取られた方もいたかもと、反省しています。よくないです、こういう名前の出し方。ホント申し訳ない。でも、ダメな自分は消さないで残しておこうと思います。

今年度も鶴川落語会主催の「らくご@鶴川」公演は、芸術文化振興会の助成に採択されており、つい先日、実績報告書※注1 の提出を済ませたところです。
その時に、今年度の活動で得られたことを記載するところがあり、そこに「まだまだ少人数ではあるけれど、若い顧客が増えてきており、若い方への落語および寄席演芸への興味関心につながっている手応えを感じている」と(一言一句同じではないけれど)書いて提出しました。

若い方から意見をいただく時、それは大抵、噺の中の古い表現や内容であり、
「昔のことだから仕方ないとわかってはいるけれど、あの噺は笑えない」という意見が一番多いです。差別表現が気になるのは、私にも苦手な噺があるのでわかります。

「あの演者さんが出る時は行かない」という特定の演者を避ける話も、耳にすることがあります。その演者が人によってバラけることはほとんどなく、2〜3人の演者に集中しています。私の世代には全く気にならない表現を、若い方が嫌がるケースは結構あって、暴力的な言葉遣いは、若い方にしてみれば粋でもなんでもなく、乱暴で聴くに堪えないものだったりします。私から見れば、演者の個性の範疇という認識で、たいていは行き過ぎた江戸っ子口調や芸人としての粋がったさまで、実際の本人はそんな感じではないのだけれど、苦手なら無理に聞かなくてもいい、でもいつか良いなと思う時が来るかもしれないよと、伝えることにしています。

わからない奴にわかってもらわなくてもいいとか、若い人に媚びてまでとか、そういう意見があることも知っています。(媚びてないけど。)誰に頼まれたわけじゃなし、わざわざそんなことしなくてもいいんです。大変だし。だけど、落語会の主催という商売をしているし、NPO法人化の際に掲げた「落語および寄席演芸の普及、啓蒙」という理念もあるし、そもそもわからない人にわかってもらう努力をしないで、この先生き残れる芸能だとは思ってないので、ここ2〜3年は若い方へのアクションを大事に活動してきました。お世話になっている落語家さんへの、ささやかな恩返し・・・とかいうとちょっとカッコつけすぎな気もするし、小っ恥ずかしいけど、そういう思いもちょっとだけあります。

そうして少しずつ時代の壁を乗り越えて、落語という文化への理解を深めて楽しんでいる若いお客さんが、少しずつ増えてきているところに、私的にはそんなタイミングで、鬼丸師匠のポストは流れてきました。

私は「すっごく頭に来ている」という言葉を使っていますが、これは「主催者という商売をしている人間」としての怒りです。率直に言えば、何してくれてんの、商売の邪魔する気?です。商売人としての怒りと判断してもらって構いません。
私は今年、そっちに舵を切ろうと動いています。それは儲けようというよりは、生き残るにはやるしかないという現実と、このままでは結局何も残らない焦りでもあります。ま、ウチの会の話はまた今度書くとして。

「落語界ってそういうところなんだ」という驚きと怖さ。応援して大丈夫なのだろうかという不安と罪悪感。友達に「寄席に一緒に行ってみようよ」って誘いづらいな。落語好きって言いにくいな。ってなると思う私は、考えすぎですか。そしてこれ、若い人に限らず、世間全般がうっすらと、そうならないとも限らないと危惧しているのですが。

師弟制度は否定しないです。それどころか、そこが崩れたら、今の落語文化は終焉を迎えると思っています。そのくらい師弟制度は守っていかねばならないことだと認識しています。でも指導や教育と称した暴力が罷り通るのには反対です。厳しさや理不尽な目には、一般社会でも遭います。私も数えきれないほどの理不尽な目に遭ってきました。しかし一般社会には今や、他人の目があり、相談したら動いてくれる人や機関が存在します。師弟制度には、それがない。だとしたら、どうするのか。個人の裁量に任せたままで突き進むのか。ブラックボックス化し過ぎないように線引きをする方向に動くのか。何かあった時に師弟の間に誰が入るのか、入れるのか。それ以前に、弟子を取りたがらない師匠が増えるのではないか。そもそも就職じゃないからどの程度権利が発生するのかも不明。芸協、圓楽一門会や立川流ではどうなるどうする?落語家じゃない私がちょっと考えただけでも、問題山積。

私は厳しい修業も否定しません。それを乗り越えた先に掴めるものがあると、言葉で表現できないけど、確実に感じています。ただ、人格否定や暴力はダメなんです。時代がそうだからって表現が多くみられますけど、そうじゃなくて、そんなやり方での指導は萎縮するだけで、良さが発揮できなくなる人が一定数出るんです。昔はそれを弱さと切り捨てていただけのことで。

敏感に反応しすぎて若い人に気を使いすぎる風潮も、実は良くないと思っています。叱る時は叱る。ダメなものはダメだと諭す。言葉や背中でわからせるのは疲れるんですよね。労力かかるから。そうなんだけど。だけども、です。

パワハラへの個人の認識の違いを埋めるためには、大人のコミュニケーションを取りながら、摩擦は多少あっても、年月はかかっても、行きつ戻りつを繰り返しながら理解を深めていくしかないんじゃないですか。分断している場合じゃない。長年それが正しいと信じてきたことを変えるには、抵抗や苦しみが伴いますけど、手を入れる時が来ていると思う。

お客様にたくさん来てもらって、笑って泣いて喜んでもらってナンボの世界で生きているんです。今、大事なこと、優先すべきことは何なのか。そこを忘れないで欲しい。


注1:助成金をいただくために、助成対象公演が終了したら、一定の期間のうちに提出する書類のこと。収益や支出の記録、憑依書類、活動内容などがそれにあたる。





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