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23/12/8 楽になった話

昨日、友達がずっと友達という立ち位置にいるとは限らない話を書いたのですが。

ああ、あの人とは生きる場所が違ってきたとぼんやり思いながらも、相手側からしたら、私の中の問題で勝手にぶった斬って、迷惑なだけかもとも思っている。人の口に戸は立てられないってわかってるし、悪い人じゃないことも知っている。人なんてそんなもんだと言いながら、昨日のような思いも渦巻いてしまう。

変わってしまったのはアンタじゃんと言われたら、確かにそうで、だけど自分でどの程度変わったかは正直よくわからない。自分に起きている緩やかな変化を「私はこのくらい変わった。今このくらい変わりつつあります。」なんて説明できないし、わかりやすい数や量で示す方法もない。

私は落語会のことをやり始めて、見た目にはわからないけど、ちょっと話せばすぐわかるレベルで変わったと思う。特に夫が死んでからは加速度的に社会人になった。肩書きが妻じゃなくなったのだから、そうなるしかなかった。若い頃から、妻であり社会人である状態を作っていればよかったと、何度か後悔した。

夫の死後、妻じゃなくなった私は、誰なんだろう。誰になれるだろう。無意識に何かにならねばならない、自分の居場所を作らなきゃならないと躍起になっていた。だって、何も持っていなかったから。生きていくために必要な全てが私にはなかった。私の場所は家以外になかったから。誰かに認めてもらわねば。そうじゃないと、社会的に死んでしまう。そう思っていた。今思えば、何をそんなに力んでいたのかと思う。

認められるって、誰に?何を?認める、認められるって、その時点で上下関係が出来上がっているじゃないか。おまえなんか認めないと言われたら、じゃあどうするの?認められようと頑張るの?何に向かって?それで何を得るの?

今年の夏から秋にかけて精神面で少々参って、これまで認められるためにやってきたことを、恐る恐る手放した。そしたらめちゃくちゃ軽やかな暮らしが待っていて、体に溜まっていた水分の20%くらいどこかへ蒸発したくらい楽になった。何かを失うなんてこともなく、認められなくて困ったこともなく、日々淡々とすぎていくだけだった。

これまで付き合いのあった信頼している仲間との関係性にも変化はなく、仕事も疎かになることもなく、苦しみと引き換えに何を得ようとしていたのか、全くわからなかった。

私の欲しかったものは、多分自分の中で勝手に膨らませた欲で、その欲の先には何もなかったというオチ。苦しめば苦しむほど、その先に何かが待っている気がしていただけだったんだな。でもそれがわかっただけでもヨシってことで、明日は勉強会だからそろそろ寝るとしよう。


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