第三回 加害者の背景に考えを巡らすこと "水のえっせい"

この週末共通テストが行われた。愛知県の高校2年生が東大まではるばるやってきて、受験生を含む3人に刃物で切りつけた。動機をざっくりというと「東大に行きたい、医者になりたいが、勉強がうまくいかなくなって死のうと思った。」とのことだった。
まず何よりもこの事件で被害にあわれた方が気の毒でならない、またこの日に東大で受験した学生もさぞかし不安であったことだろう。本当にいたたまれない。無事に回復していくことをお祈りしています。

さて、我が家の昼食の時間に父母がこの高校2年生のことをひたすらに、批判というか、もはや蔑む会話が交わされてた。

私はその状況に些か不快感を覚える。確かにこの加害者が100%悪いのだが、なぜこの若い17歳がこのようなことになってしまったのかという背景にもう少し目を向けなければいけないのではないだろうか。自暴自棄になるには少々若すぎる。ただ勉強がうまくいかなかっただけではないはずだ。
周囲からの過度なプレッシャー、不満のはけ口の欠如、自我や現実と理想との葛藤など、想像するにきっとつらいこともあったはずだ。
具体的な推測はここでは控えるが、なんとなく想像は着くであろう。

この事件は100%この加害者の方が悪い。ただ、この加害者がこのような状況に陥る原因は100%彼のせいではないだろう。この2つは切り離して考えらければいけない。
私たちはこの加害者を自分の周囲に絶対作らないと言い切れるだろうか。被害者に祈りをささげるのはもちろんだが、加害者を増やさないために、我々はもっと寛容にその加害者の背景を推察し共有すべきだ。

加害者への暴言は、この社会にさらなる分断をもたらすだけであろう。

人の苦しみは人の苦しみだ。人と比べるものでは無いと思う。それぞれの苦しみに対してもっと想像力を働かせて寄り添える大人でありたいと切に思います。

#水のえっせい
#エッセイ




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