第二回 芸術とはどこで線引きされるのか "水のえっせい"

そもそも文章を書き慣れていないので、まだまだ質より量を求めるので、時間がある際はどんどん書いていきたいです。"水のえっせい"第二回、今回は芸術とは何をもって定義されるのかに想いを馳せてみたいと思います。

そもそもの前提として、私は芸術というものが大好きです。そこに人間の豊かな感情の表現活動が見ることができ、それは欲求であり、主張であり、最高に無駄な営みだからです。だから好きなのです。

そしてもっと芸術が、アートが生活に近くなければいけないとも思っています。実際、芸術はありとあらゆるものだと思います。しかし私たちは芸術という言葉に壁を作ってはいないでしょうか。高尚な大衆的文化とは一線を引いたものだと。ではこの線引きはどうして行われるのでしょう。どこに行われるのでしょう。

絵画は芸術ですか?このような問いがあるとすれば、ほぼ全員がYESと答えるだろう、もしここがフランスならOuiと。では音楽はどうだろう。これもほとんどの人はYESであろう。では童謡はどうだろう。これはいささか難しいかもしれない。

さらに続けよう、文学とは芸術なのだろうか。実はこれが私が今回の主題にしたい問いである。個人的にはYESである、言葉を使った芸術作品が書籍であり、読書という行為は芸術鑑賞そのものではないだろうか。でも必ずしも皆さんがYESではないだろう。

文学といっても様々だ。古典は芸術と言われ易い性質をもっているだろう。太宰治の「人間失格」はどうだろう、読むべき一般教養という意味で、芸術作品と呼ばれるに遜色ないと考える方も多いのではないだろうか。

では、漫画はどうだろう。雑誌はどうだろう。これらも文学には含まれるものであろう。しかしこれらを芸術作品という人はこの世にどれほどいるだろうか。いわゆる古典や小説が芸術作品と言われやすい傾向があるのに対し、漫画や雑誌がそうではないのはどこに違いがあるのだろうか。
童謡もそうだが、作品自体が持つエンタメ性や手軽さが起因しているのであれば、芸術というものには、一定の教養や知的ハードルが設けられることになる。そうとなると、芸術は知的教養を含んだ文化的作品やまたその行為という定義付けになってしまうのだろうか。その定義付けは大衆をさらに芸術から遠ざける排他的なものに他ならない。

芸術とは表現そのものであろうと私は信じているのだが、それでもやはり線引きは難しい。表現するもの全てが芸術というわけではない。かといって芸術は身近なものであるべきだと思う。自然は芸術的だなとも思う、それはある種直感的な感覚であるが。

やはり生活者の意識の問題だと、安牌な落としどころに落ち着いてしまいます。ではこの生活者が芸術という物に、作品に抵抗感なく触れ合え、「芸術的だね」と言える世の中にするために必要なのが、美術館であり、映画館であり、コンサートホールだ。ただわれわれはそこで主体的に感じること、考えることを止めてはならない。享受したものを単なるエンタメで終わらせないために。エンタメという言葉を悪く言いたいわけではないが、もっと日本のエンタメは芸術的であるべきだと思います。脳内麻薬のようなものかまけることなく人々が安らぎを手にできるような、そして人々が五感を働かせる何かを提供してもらえる機会が増えたらいいのに。

勢い任せの文章、今回はここまで。特に今回もアンサー的なものはありません。

ではまた。


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