日記未満
生きてる。きょうも生きてます。
言いたいことを表に出すのは難しい。オーラルかテキストか、その区別は問わず、難しい。
いや、やめよう、とすぐに思ってしまう。いまがそう。今回は消さずに書き続けられそうだけれど、たいていの場合、こんな書き出しだったらすぐに消してる。それは、書いていることが「なんか違う」と思うから。違う理由はいろいろある。当たり前。
もういやになってきた。消したい。でも、当然消したくない気持ちもあって、いまはかろうじてそちらのほうがまさっているから消していない――いや、たぶんこれも違う。消したい気持ちと消したくない気持ちのどちらのほうを強く感じているからといったら、大きさでいったらそれはもう消したい気持ちのほうが何倍も大きい。でも消そうとするその瞬間に消したくないという気持ちが勝ってしまう。大きいからといっていつでも勝負に勝てるわけではないということは、世の中、往々にしてある。
たとえばデモとか? わからないけど。国会議員の数とデモの参加人数でいったらデモのほうが多いのにデモで主張されていることが全然国会に響かない、届かないということは日常茶飯事だ。
これも消したくなってきた。だって、ある議題において、その賛否の行く末について国会議員の人数とデモの参加人数で比べること自体にそもそも無理がある。なにその雑な図式、と思う。
研究者や評論家、専門家というのは、このような試行錯誤を人の目に見えないところで日夜しているのだなと思うと頭が上がらない。わたしは書いてしまうから。なにもまとまっていないまま、なにも考えていないまま書いてしまうから。そしてその結果、案の定、消したくなる。
なにも精緻に考えられないからなにも書けないという状態と、自分ではいろいろ考えているつもりで、ゆえに考えすぎてなにも書けない状態というのは、結局外になにも出ていないという意味では区別がつかない。よって、その人が考えているように見えるかどうかは、その人のこれまでの道筋を人々がどのように解釈するかという点で左右される。
約850字。ここまで、具体的なことは何一つ書かれていないといってよい。
今月、5月18日には、わたしは「これが助走になればよいと思う」という記事を公開している。このときはいま以上になにも考えていなかったがゆえに、饒舌だった。考えていなければいないほど、自動化された思考であればあるほど、人は饒舌になる。当然例外もある。
抑うつ状態が強くなにから手をつけていいかわからない。けれど、なにもできないほどひどい状態ではなく、なにかをしたいとは思っている、と自分では思っている。そんな状態のときに人はこういう無駄なことをしてしまう。
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