夢と悪夢

土曜日、久々に新大阪駅に降り立った。すぐに目に入ってきたのは宣伝モニタに映し出された大阪万博のマスコットキャラクター。ただでさえ精神力が削られる旅だったため、それを見たときにはさらにどっと疲れが押し寄せてきた。

人は夢を見る。
その源泉はノスタルジーだったり、一発当てたいという野心だったり、これでウハウハだ(なにこの言葉)というお金目当てのちっさい欲望だったり、メンツという「おれがやらねばだれがやる(とその人だけが勝手に思い込んでいて、実はべつにやらなかったところで大きな損害はなく、むしろ周りから感謝される可能性すらある、いわばメサイア・コンプレックス未満のイキリ)精神」だったり、いろいろあるだろけれど、とにかく夢を見る。希望を見る。それどころか、それがかなうはずだと勝手に早合点する。「自分の頭の中にはすでに名作があるんで」と豪語する。
大阪万博を推進している力がどのような源泉からわいて出てきているものであれ、そうした夢が原動力となっているといっても差し支えないと思う。

一方で、人は悪夢も見る。
先ほど述べた「夢」が睡眠中に見るあの夢の話ではなかったのと同じように(いや、もしかしたらそれらを区別することに実は大きな違いも意味もないのかもしれないけれども、便宜的にここでは区別するとして)、ここで述べた「悪夢」も睡眠中のそれではない。
こちらの選択肢を選んだら絶対に失敗する、あー締め切りが近いのにまだ何も手がついていない、つける気配すら自分は見せていない、というかもう締め切り過ぎてます、それでも身体が動きません、精神のせいなのか身体のせいなのかもわかりません、なぜこんなにも自分はだめなのだろう、絶対うまくいかない、失敗する未来しか見えない、むしろいま失敗の最中です――。
その内容や形式や見た目や思考回路がどうであれ、とにかく人は悪夢も見る。

夢を見るにしても、悪夢を見るにしても、いまここからいささか精神が乖離して未来を過大評価しているという点では同じなのかもしれない。前者はプラスの方向へ、後者はマイナスの方向へ。

それなら、この2つについて、どちらがより現実的な態度であるかと問うことに意味はあるのだろうか。
そんなん、条件や状況による。
回りくどい書き出しで始めてしまったが、夢を見ている状態とはたとえば誇大妄想を抱えている状態であり、悪夢を見ている状態とはたとえば学習性無力感に襲われている状態だと考えてみることができそうだ。
誇大妄想と、学習性無力感。
それらの言葉が示しているように、夢と悪夢を上記のように捉えた場合、より現実的なのは悪夢を見ているほうだといえそうだ。なぜなら、前者は結局「妄想」であるのに対して、後者は未来を過大評価しているかもしれないけれども少なくともこれまでの経験から「学習」はしているからだ。
ならば、より現実的な態度であるはずの悪夢を見ている状態の人のほうが現実を動かすことができるのかというとそうではなく、むしろなにも学習せず勝手に妄想を抱いている人のほうが何かしらの行動に映したり、大胆な決断ができたりする。

話をより現実的なフェイズに進めるために、具体的な例を出そう。
夢についてはもう大阪万博でよい。大阪万博バンザイ、大阪万博最高、あの素晴らしい大阪万博をもう一度。そんな感じ。
悪夢については、ここでは社会にのさばっている性差別やハラスメント、性暴力に関する二次加害が減らないことに対してどうしていけばよいのかわからず途方にくれている人、たとえばわたしを想定してみる。

夢を見ている人は「自分の頭の中にはすでに成功の未来が見えている。成功の未来しか見えてない。というか成功しないパターンは想定しない」状態だろうから、いわば無敵の人。もちろん精神も身体もごきげんで、毎日が楽しい。なにか文句を言っている人たちがいたとして、ムスカの気分になっているだけでよい。金と権力があれば問題はない。鶴の一声で人が動く。結果、誇大妄想はねじまがったかたちで現実化し、その現実があたかも当初予定していた未来予想図であるかのように、成功という器に無理やり押し込められる。かかとを切ってでもガラスの靴に足を入れたい。ガラスの靴が手に入るなら肉の一切れや二切れ、いくらでもくれてやる。

一方で、悪夢を見ている人はつねに絶望的な未来を見ていることになるので、基本的に精神はズタズタに切り裂かれ、そのせいで身体が動かないことが多い。むろん抗うつ剤を服用するなどの対症療法をすれど、しょせんは対症療法、最後の一押しはどこかで「やるぞ」と身体に発破をかけるしかない。また、そうして身体が動きはじめたところでようやくスタートラインに立ったに過ぎない。目を覆いたくなるような、吐き気をもよおすような二次加害をしている人や団体にアプローチをしても、夢を見ている人のように理不尽であるがゆえに強靭な公正世界仮説的な謎理論で攻撃され、こちらのメッセージが届くことはない。というか、基本的にはそもそも反論すらされずに無視されることも多い。ある二次加害者はのうのうと仕事を続け、周りもそれを許し……というかむしろ周りは積極的にともに仕事をし、結果、二次加害者は文字どおり対岸の火事の写真をSNSにアップして一日を終えることになる。わたしは存在していないも同然。そんな気分に覆われ、打つ手がないとしか思えなくなってくる。それでもせめてと思い、暴力という手段を使わず、どうにか自分にできる範囲で行動を起こしてみるも、それはまたあらたな無力感を生む材料に過ぎないのではないか、自分で自分を苦しめているだけなのではないか、そんな錯覚すら覚えてしまう結果となる。


今回も締めの言葉はありません。どこかにそれはあるのかもしれないですが、こんなむごい現実を前に差し出せる言葉をわたしはまだもっていません。わたしにはその能力がありません。なにを書いてもうそっぽくなってしまいます。だから、この日記はもうここまでにします。この文章自体がうざかったらご指摘いただけると助かります。すぐに修正あるいは削除を検討します。

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