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やさしさについて思い出したこと

わたしは 考えることが好きなので
何かについて ずっと いろいろ考えています。
『必要な考えること』です。
(自分にとっては、です。)
ときどき 無になって なんにも考えない時もあります。これも必要なことです。


 気にはなるけど 考えても わからない時は ぽーんと 脳内の宇宙に 放っておきます。

暫し 放置です。

そうして 日々の時間に 気持ちよく流れているうちに そのことを忘れていることも よくあります。



自分の触覚で 寄り道や いつもの買い物先や病院までの道のりも その時その時に さわさわさわと 触手を伸ばして どの道がいいか、選びます。

たまたま 選んだところで
 脳内宇宙に放流していた、
『気になっていたこと』に繋がる欠片に出会うことがあります。

忘れていたものを 取り出して そこにうまく当てはまった時は 自分の中で 振動を感じます。

感動です。

大袈裟なようですが
涙が零れるほどの 絶妙なタイミングにも出会います。
言葉で言い表せない、大きな優しさを感じるんです。

紡がれていく感覚です。


 むかしむかし、
優しさについて 考えていたことがあります。

以前 パン屋さんに寄って
お店を出た時、ちょうど 道を挟んだ向こう側で 自転車に乗っていた人が バランスを崩して 転けたことがありました。

咄嗟に 左右の車を確認して
さっと駆け寄って
「大丈夫ですか?」
と 声をかけて 自転車を起こしました。

その方は
痛そうにしながらも
そのまま何も言わず 自転車に乗って 去っていきました。

怪我がなくてよかった。

と思ったと同時に なんだか違和感を感じました。


あれ?


なんの『あれ?』なんだろう。
すぐに 自分でもわかりませんでした。


あ。
あの人 「ありがとう」って言ってなかったな…。


ん?
そうじゃない。

おかしい。

何に違和感 抱いているんだろう、わたし。

「ありがとう」 がなかった?

あの人は 恥ずかしかったかもしれません。
たすけてほしくなかったかもしれません。
いや、
転けたことが恥ずかしくて
一刻も早く その場を去りたくて
できることなら ひとりで完結させたかったかもしれないし。

他人であるわたしに 声をかけられて
嬉しくなかったかもしれない。

ごめんね、と思いながら 去ったかもしれない。

いやいやいやいや。違う。

そんなことより
「ありがとう」と返ってくるのが普通と思っていた自分に 最も違和感を抱いたのでした。


それからというもの、
『やさしい』ということについて
いろいろ考えることとなりました。


いろんなことを経験して
人をたすけたい、手を貸したい、
そういう場面に出くわす機会も多く、その度 様々なことを考え、思い、
その場の景色を ゆっくり見るようにしました。

今は
『やさしい』というのは
わたしにとっては

『自分がやりたいこと』となりました
それを優しいと呼ぶのかどうなのかというと また 別な問題ですが、

他人が困っている時に
たすけるのは 人として当然のことで、
 どうしたらいいかと
一生懸命になって 考えたり悩んだり、
じたばたしたり、
必死になって動くことは 結局は
わたしが そうしたいから、ということがわかったので

それに対して
『ありがとう』がなくても もうそこに ん? と思うことはありません。


少しずつ少しずつ
自分を集めていくんです。

世の中が 当たり前になっているようなことにも 改めて 考え直していきたいです。


こういうことが たのしくて 
普段は ついつい自分がまだ 癌治療の最中だということ忘れてしまいます。

うっかりして ついつい以前のように
『もう無理』を越えて頑張ろうとしてしまいます。

でも、完全に違ってきたのは
たのしんでやっている』ということだと思います。


自分のペースで 
少しずつ 自分を集めていくのです。


今日、雨が降っていたので
夕方のまだ 5時半でも 外出ると 暗くて 驚きました。
スマホで 時間の確認してしまうほどです。


歩いて 買い物行ったので
近所の自由猫のとらこに会いました。
向こうから 
「にゃああん」
と鳴きながら 寄ってきてくれました。

今日は とらこ一匹です。

とらこは近づきすぎるので
うまく撮れません(笑)
ずっと ついてくるんです。 
前に前に来るので
ときに蹴りそうになります。
ばいばいする時は
ちょっと 心を鬼にして
見ないようにして進むしかありません。
離れたところで
つい一回 振り返ってしまうけど。


今日の一日も お疲れさまでした。
そして、これからの方も 
時が良い流れでありますように。








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