根拠を説明しないで煙にまく

「AはBだ」と言うのであれば、(それが言葉の定義でない限り)その根拠を聞かせてほしい。多くの人がこう思うのだろう。だけど実際には、「AはBだ。なぜなら〜だからだ。」の形式の根拠でなくても、「AはBだ。例えば〜だ。」でも良いし、「AはBだ。今まで〜だった。」でも根拠として捉えてしまうところがある。それをうまく利用している言説が多いように思うのだ。
「AはBだ。」の後に何か続けばそれだけで説得力が増してしまう、という悲しい現象が起きている。なぜなら私たちは厳密にはなんの根拠も正確には分かりえないし、一つ一つの言葉をじっくりと吟味することもできない。脳のキャパシティはそこまで大きくないから。だから、単純に話の構成や、音やトーンで根拠として成り立っているかを判断してしまうのだろう。

たとえば、キングコング西野が近代の卒業式で行ったスピーチ。
”時計ってすごく面白くて、長針と短針があって、あいつらは1時間に1回すれ違うんですよ。重なるんですよ。1時5分で重なって、2時10分くらいで重なって、3時15分くらいで重なって、長身がもう1回追いついたかと思ったらまた4時何分かで重なる。毎時1回は重なるようにできているんですけど、11時台だけは重ならないの。11時台だけは短針が先に逃げ切っちゃって、2つの針って重ならないんです。次に2つの針が重なるのは12時。鐘が鳴るときですね。  伝えたいメッセージは何かと言うと、鐘が鳴る前は報われない時間があるということ。これはぼくにもあったし、今後皆さんにもかならずある。人生における11時台というのは、必ずある。でも大丈夫。時計の針っていうのは必ず重なる。だから挑戦して下さい。皆さんの挑戦がうまくいくことを願っています。頑張ってください。ぼくは、ちょっと先で待ってます”
要約すると、「人生には報われな時期もあります。だけど必ず報われる時がきます。時計だって〜」となる。「人生では必ず報われる時が来る」の根拠は何一つ言及せず、ただただ時計のアナロジーを使っているだけだ。比喩はわかりやすくするためにあるもので、物事の構造が似ているときに使うものだ。人生と時計を比喩で結びつけるのであれば、人生の構造と時計の構造が似ているということを言う必要がある。(もちろん明確な場合には説明しなくても良いと思うが、人生=時計は自明だろうか。少なくとも私には分からない。)
比喩を使えば、根拠を示さなくて良い、なんてことはない。だが、このスピーチがえらく評判が良かった。これが怖いのだ。根拠がなくても評判が良いとなると、より根拠は語られなくなる。そして誰かが言った「AはBだ。」を無根拠で信じなくてはいけなくなるのだ。

他にも投資信託を紹介するコラムではほとんど毎回以下の文章が使われる。
”20年間投資した場合における元本割れの確率を示したものがあります。スタンダードな国際分散投資を20年続けた場合、元本割れしたことはないんですよね。”
「投資信託は損する可能性が低い。なぜなら過去20年間損したことがないからだ」と言うのは根拠として成立していない。昨日までは得していたことが、今日から損になる、という可能性が低いと言える根拠は全く示していない。
この言説が根拠だと信じて、投資信託を買う人が多くなったときに、それでも損しないなんてことはあるのだろうか。これまでの20年間と、これからの20年間では、投資信託にお金を入れる人の種類が変わっていくと思う。もちろん経済状況だって過去20年間と未来20年間で一緒になることはないだろう。それでも過去の20年間に起きたことがこれからも続くと言えるのだろうか。

マルチ商法で人を勧誘する方法は「これでお金持ちになれます。たとえばAさんは300万円収入を増やしたし、Bさんは〜、Cさんも〜。」という構文だ(と思う)。Aさんに起きたことが私に起きるかどうかは全く説明しない。
キングコング西野のスピーチも投資信託のコラムも同じだ。人生が時計と同じように動くことの説明を全くしない、過去20年に起きたことが今後も起こることの説明をしない。

根拠を示せよ!とどうしても思ってしまうのだ。

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