オッペンハイマーを観て思ったこと
こんにちわ
話題のオッペンハイマーを観てきました。見ごたえのある映画でした。
作中で日本側のリアルな描写はないんですけど、広島長崎を想うと途中から涙がとまらなくて。
改めて、私は日本人で、日本人というフィルターで世界を見てしまっているんだ、と気付かされました。
映画を観るちょっと前まで、
数日かけて“アプライドキネシオロジー”というものを学んでいたんですね。
これはカイロプラクティック界の、治療法の1つ。
別に施術者になりたいとかではなく、単に視野を広げる刺激がほしくて勉強してきました。
キネシオロジーは、健康において、構造・化学・精神のバランスが大事という考え方がベースにつくられた治療法。
やることは筋力検査だけど、単に筋力の有無をみるものではなく、これを通じて内臓や栄養や経絡や心理など幅広いものの中から、どこに根本原因があるかを探して、アプローチするもの。
筋肉をみて、その筋肉に関連するその他のものの状態をみる、みたいなもの。
ざっくり~
ただ、このアプライドキネシオロジーのベースを作った人の執念がすごくって。
この筋肉は、どの内臓に関連するか?みたいなことを、ひとつずつ地道に実験して探していったそうなんですよ。
放射線を使用し、身体の反応を部位ごとにくまなく探していったんですって。
そして、最期は被爆が原因で亡くなったそう。
ほんと凄まじい先人たちによって解明されたものには敬意しかないし、おかげ様で今があるんだなあと、
それはまあ、ありがたい気持ちになったわけです。
そしてこのアプライドキネシオロジーは、量子物理学がベースでもあるのですが、これもまた、天才達の数知れぬの苦悩があってのこと。
そんなことを直近で考えていたこともあって
オッペンハイマーを単に映画としてではなく、すごくリアルなものに感じたんですね。
オッペンハイマー視点(他の登場人物それぞれもだけど)、米国視点、そして日本人の私の視点においての【陽と陰】が見えたというか。
単なる作品ではなくて
「この事実の後の世界に私は生まれ、今を生きている」
と、今の自分自身の世界線をみせられた気がしました。
そして映画の中で 様々な
破壊
が描かれるんですけど
破壊は規模の大小はあるけど、ネガティブパワーから始まる。
執着、妬み、恨み、欲。
それを少しでも、手放す方向に進むには、深く幅広い理解が必要だと思うんですね。
ピラティスは、分かりやすい自己理解のツール。
肉体の感覚を利用して自分に気付き、偏りに気付き、次第に肉体を超えた自己理解を高めていくもの。
最近は、ピラティス網羅できない部分も感じているけれど
それでも、まずは自分を一歩ずつ理解することから平和が始まると思ったのでした。
そして、原爆を落とされた側の日本人が、落とした側の背景をこうして理解することも、平和への一歩。重かったけど。
アプライドキネシオロジーを勉強しに来ているほかの受講生の話を聞いたら、まあ色んな人がいて。
世の中に存在する自然界をよりよくするツールの多さを改めて直視する機会になって、良い諦めがつきました。
何が一番いいとか、考える必要性がなくなった。
白黒つけない曖昧さを受け入れる準備がようやくできてきた感じがします。
映画オッペンハイマーを観ていても、
良い悪いとか、批判評価とかができない感覚だった。
なぜならその延長にあるこの時代に、私が生きているから。
なんだか今日はハートの絵文字を使う気分じゃないなあ。
今この瞬間に関わる全てに、こころから感謝です。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?