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東京夜光「BLACK OUT」に激怒した話

3日前、友人から突然「これ見てきて、感想語り合いたい」といわれ、本日観劇して来た。

※これはあくまで私の感想であり、この劇団を非難するわけでも、アンチでもありません。ただ、私がそう感じたよというだけの、帰りに電車で一心不乱に書き連ねた、私の演劇に対する考え方の話です。
口コミがいいので、それと反対する感想で、気分を害しそうな方は絶対に読まないでください。

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あんなに激怒して帰ったことない。途中であれほど席をたとうかと思ったことがない。途中休憩で帰ろうかなと思ったくらい。
肌に合わなかった訳でもないし、内容としては面白かった。でも、コロナを絡めてきたことで、途端にこの作品が薄っぺらいものに見えてしまった。

演出助手をやりながら作演を目指す人の、どっちつかずとか、主人公の心に傷を負いたくないってとこは、私が一番共感するとこで、鬼木に縋って謝るところは、ああ私が普段人に見せない疚しくて暗い部分を見ているようだと、自分を自分で囲って、平凡になんの矛盾も抱えずに生きてきた自分のようだと、そんなところが重なって、あのシーンはどばっと冷や汗かいた。

でもさ、それでいいじゃん、演劇やりながら矛盾抱える姿でいいじゃん、なんでコロナ絡めたのよ!!
そもそもが、舞台の中で、「ウイルスの話すると嫌な気分になる人がいる」とか、「接触は気にしちゃう」っていってんじゃん。気にしてる私がきっと悪いんだとも思うよ、でもさ、客席との間あのくらいしか空いてないのに、マスクもなにもしてないキャストがそこでそんなに喋るんだって気持ちになった。キャスト同士が顔つき合わせて喋るとか、密着したままとか、そのセリフを、コロナを扱いながらしたらだめなのよ。単純にソーシャルディスタンスを守らないことに怒ってるんじゃなくて、コロナを扱いながら、その禁忌を犯すことは、【演劇の負け】なのよ。
例えば、この間のPARCO劇場の『大地』、あれはコロナを扱ってるわけじゃないけど、世界観としてはコロナみたいなとこだし、題名にソーシャルディスタンスって入れて、客席との距離も考えて、この状況下でも、それを逆手に取って、違和感を覚えさせず、面白いものにしていくぞっていう、コロナがなんだよ、それを利用して面白くしてやるぜって作品だったわけだ。そして、わざわざ危険を犯してまで観客を入れて、その場で、観客がいないと成立しない、その場にいるからわかるっていう、そういう力が確かにあった。危険を逆手に取って、演劇ってものを飛躍させて、コロナっというソーシャルディスタンスや感染症対策とか諸々を使わずに訴えかける、謎解きみたいな、ひと捻りみたいな、遊び心みたいな、正に演劇である必要のある作品だったわけだ。
でも今回のは、コロナがあるけど、俺達の演劇はソーシャルディスタンスとか破らないとだめだ、演劇は、コロナのせいで潰れるから、その危険を犯さないとだめだって、この状況下に屈服して、なんの進化もしてない。遊び心もない、ただド直球にコロナで我々は苦しんでるけど、なんとかやってるよ、演劇って現場は見ての通り大変だし、辛いし、金もないし、そこに加えてコロナだよ、私達演劇人可愛そうでしょう、それでも僕らは、コロナに屈服せず、演劇やってるのよって、新しいアイディア出しもしないで、withコロナ世界を嫌だ嫌だと駄々をこねてるガキみたいな作品に見えてしまった。だって、あの作品にわざわざ危険を犯してまで見に来る必要性がない。確かに、卓にいる照明とか演出部とか、舞台上で行われるすべての動きってのは、映像じゃわからない。でも、あれには観客がいる必要性がない。私はPARCO劇場の大地を見た際に、【観客とその場を共有することが演劇】だといったが、今回、我々と舞台は切り離され、私は他の観客がただの雑音のようにしか思うことができなかった。それって、一緒の空間にいる必要性がないよね。その場に観客がいて、あの作品が仕上がってるわけではないもの。

さっきも言ったけど、あのまま、演劇を続けてきて、三十路になって、フラフラ揺れて、傷ついて血も流さずにわがままを言ってる男の話であれば、私は共感とは違うけど、あまりにそれが自分に重なって、ある意味での嫌な気持ちのまま終われたんだと思う。でも、そこにコロナを巻き込んだなら、観客が危機を犯してまで見に来る必要性を私達にも与えてほしいし、舞台で今ここにコロナを絡めてやる意味を教えてほしかった。後付で、この男の苦悩に、更にコロナを入れたら更に悩むよね、大変だよね、みたいな浅はかなテコ入れにしか見えなかった。

最初はもちろんコロナ関係してなかったけど、演劇の現場ってこうだよねって、細かすぎて伝わらないモノマネ(つまらない)を永遠と見せられてる寒さに耐えられなかったから、席をたとうかと思った。途中休憩の10分間、ほんとに帰ろうかどうか悩んだ。いやもうほんと、何度もいうけど、後半の俗に言うクライマックスはもちろん面白かった、だから、あれで落ち着いてほしかったの。コロナをうまく使えずあんなことになるなら、マウスシールドをして、最初からソーシャルディスタンスとってますよって明言して、コロナ全く関係してない2.5次元の方が絶対面白いわ。だってそれは、ソーシャルディスタンス取りながらどうやったら面白くなるか考えてるんだから。この間行った2.5次元の現場は、それすらしてなくて、まじで前回の続きでストーリー作って、お互い触りまくってたけど、最善にはフェイスシールドしてもらってたし、めちゃくちゃ前開けてたし、一応形としてはコロナ対策とっていたから。

演劇はコロナに負けてはいけない、だからって、圧倒的左翼になるんじゃなくて、それを受けた上で右翼的にやっていかない限り、世界がwithコロナの時代で、演劇は生き残っていかない。というか、それを逆手にってその状況を面白くする演劇を作れない時点で、時代に対応していけない、はい、これ自分への戒め

私が激怒した観点として、単純にずるいなぁと思った部分をあるのかもしれない。パルコとか、もちろん責任がすごいし、大手だから、とっても気を遣うし、私がお手伝いしたとこも、それを考慮してるのはわかる、だからって、三鷹が責任ないかってそういうわけじゃない、それは大きいとこも小さいとこも変わらないじゃん。責任はあるのよ、なんで私達学生も公演止められてるかって、責任があるから、PCR検査で陰性でも、その後どう変わってるかなんてわからないし、全員がクラスターであることに変わりない。気を遣って、わざわざソーシャルディスタンス保ってまで、公演をしているとこがある中で、俺達はそんなことしませーん、ソーシャルディスタンスなんかするかって、悪いことするのが格好いいみたいな感じがしてしまった。演劇が何か言われないようにビクビクしてる人もいて、できない現状を嘆いているわけなのにね。

結局、私の怒りの大半は、自分が真面目にやってるのに、真面目にやってないやつが評価されるみたいな、つまらん人間の嫉妬心な訳だ。それは劇中でもいってたみたいに、私は血も流さずに、喚いてるだけの人間だから、そう感じるんだろうなって。あるキャストのセリフで「こんな状況下だからこそ、お客さんは演劇という娯楽を見に来ている、これはエンタメなんです」という言葉と「3.11のとき、舞が復活したのはなぜか、人々は祈るところが欲しい、俺はその祈る場所を作ってやってるんだよ」という言葉のぶつかりがあって、それをいったら私は演劇をエンタメとして捉えているのかなーとも思った。けれど、演劇って左翼的なものだし、特にアングラとかは、左翼的で社会に訴えたいもの、エンタメはエンタメだけど、そういうものを持ってるわけだから、エンタメとして演劇扱ってる私は、演劇辞めたほうがいいかなって、グサグサ心をナイフで刺された。だから、この舞台が理解できないのかな、大手の右翼的なwithコロナでやるべきだって思ってしまうのかなぁって、激怒して、悩んで、考えた舞台だったという意味では、観に行ってよかった。

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