日記 「なんかわかんないですけど、人間って存在しててウケますね」
おしゃれなカフェに行ったら人が激激激混み。あちこちで話し声や食器を片付ける音が聞こえてきて、聴覚過敏には辛い。ノイズキャンセリングイヤホンを装着する。
人混みに負けないパワーのある曲を流す。引きこもってるせいで曜日の感覚がないから、ふと「たまにはお出かけしておしゃれなランチでも食べようかな♪」と思って出かけた日が日曜日だったりする。愚かだ。
↓ここから7月9日の日記
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」を読み始めた。愛について知りたかったから。
以下、読書中のメモ
他者に支配されたい、と考えるような受動的でマゾヒズムを抱えている人間と、自分が誰かの優位に立ちたい、と思うような攻撃的でサディズムを抱えている人間同士の活動は、母親と胎児のような「未成熟な共生状態」であり、それを本当の「愛」と勘違いしている、というようなくだりを読んで「わかる〜」となった
なんか虐待とかDVもそんな感じよね
精神が大人になりきれていないから手が出るし、手を出されてもそれを「自分の責任だから仕方ない」と飲み込んで依存してしまう感じ
古い本だからかセックスの話がやたら多い。まあ人間の精神を分析して突き詰めて行くと結局そういう本能にたどり着くわけだが……それでも「世間では十把一絡げに『愛』と呼ばれているが、著者にとっては「愛」という定義に含まれないもの」として上に書いた母親と胎児のような関係に近い“共棲的結合”が上げられているというわけですね。本当の愛という形を知らないか、そこまで精神が育っていないが故に、他者に「服従」することが愛であるとか、他者を支配して自分自身の中に取り込もうとしてしまう人間。そういう人間を私はよく知っている。
愛は運が絡む欲望ではなく、人間が自分の知性と技術を持って操ることができる「技術」である。ということを示す本なんだけれども、なかなかいい。古い本だし西洋の価値観が強く入ってきてるけど、だからこそ現代でなおざりにされてるものにピントを合わせてくれる気がする。
序盤の方で「人間は誰しも自分自身が個人主義者であり、自分が選択した“生産的で能動的な活動”によって動いている。と考えているが、実際はそのどれもが社会や企業によって生み出された娯楽を摂取したり、会社というシステムの中で動く部品として働いたりしており、現代の人間は社会という枠組みの中で『平等な存在』ではなく、『同一の存在』となって活動している」というあたりがSNSで形成されてる今の社会と交わる部分があるなと思った。というか昔から世界が変わらなさすぎる。
なんで自分がこの本をそもそも知ったのか思い出せない。YouTubeで誰かがおすすめしていたのを見て本を知った気がする。でも誰がおすすめしていたのか思い出せない。
読書中メモ終わり。
いまのところ、とてもいい本だなあと思って読み進めている。が、本当にこの本の内容がためになる人間は多分この本に辿り着けないまま、自己啓発、宗教、悪性を抱えた邪悪なコミュニティとの繋がりなどに流れ着くのだろうなという気持ちもある。
久々に文字しか書いてない本を読み、結構脳みそのエネルギーを使ってしまった。積読にならないように頑張りたい。
やはり自分の精神にとって良いと思える情報を受け取ると、アウトプットしたときにいい文が書けているような錯覚を得られて楽しい。最近ずっと「虚無しかない」とか「俺は死んだほうがいい」みたいな錯乱した文章しか書けていなかったし、やっぱりインプットが薄いとアウトプットも薄くなるようだと思った。自分が本を読める人間で良かった。
話はややずれ込むが、自分が本を読める人間で良かった、自分は文脈を理解できる人間でよかった、という薄暗くグロテスクな安心感は確実にこの世に存在する。そんな気がしている。それは逆に言うと「誰もが崇める高尚なものを理解できていない自分自身は愚かで、弱く、だめな人間である」という罪の意識が首をもたげるということにもつながる。そうしてSNS依存症が生まれるのである。
社会を見るための窓としてツイッターやYouTubeを長らく使っていたのだが、今になってその眺める窓自体がおかしくなるとは思いもしなかった。いやスマホの普及によって一般の層がインターネットに流れ込むようになったから、もう「オタクだけの空間」というものは消えてしまったのだけど。いまだにその蜃気楼というか、雲を掴むようにもがくオタクもたくさんいる。
オタクという集合体の年齢層というか、世代が変化しつつもあるよなと思う。特にXやYouTubeなんかで「懐かしのコンテンツ」なんかを調べると、少し前まではデジモンとかゲームボーイアドバンスとか、思い出深い90年代の児童向けアニメの話題が流れてきて楽しかったのだ。しかし、今は「3DSのニコニコ」とか「うごメモ」だとか、ポケモンBWとか、Yahoo!きっずのフラッシュゲームとか、私が子供の頃よく知っていたものばかりが「懐かしいもの」として流れてくる。その上それよりも上の世代のものは「平成レトロ」というものにいつのまにか成り代わっている。
ぶっちゃけ、私は自分が子供だった頃の思い出とかはわりとどうでもいい人間で、むしろ自分が知らない世界であるデジモンとかロックマンとかメダロットとかゲームボーイアドバンスの話とか平成初期の仮面ライダーの話を聞いていたい。が、インターネットのオタクはそうしてくれない。痛みを取り払った暖かい過去に回帰する行為に快感を覚えたオタクは、もうフレッシュなオタクに帰れない。
そして、オタクという言葉の意味から「キモさ」が脱臭されつつもあるし、「オタク」と「孤独」は別物になってきている。故に、初めからひとりのままで社交性がなくキモいだけの自分には行き場がどこにもない。ついついそう思ってしまう。
そういえば「愛するということ」にも、人は獣としての本能を捨てて社会を生きる動物であり、獣としての本能がないまま孤立した人間は誰も愛せないとそのまま気が狂って死ぬって書いてあったな。
しかし、発達した文明の中で生きる人間は「自然の中での平等」を捨てて、社会や資本主義の枠の中でシステムを回す「替えのある部品」となるように、個性を切り捨てる技術を人々は学校や社会から叩き込まれる。そうして現代の人は自分自身の内側にある「動物としての本能」を、「自分の中だけにある個性」を自覚できないまま、他者というものに足並みを合わせて、自分が他者を愛するためではなく、他者に“愛される”ための努力を行っている。とも記されていた。
書かれている文章そのまま写してるんじゃなくてその文章から私が考えた妄想が99割含まれているので鵜呑みにせず「愛するということ」を読んでください。
とりあえず、死にたくないので自分が人を愛せるように努力しますね。読んでくれてありがとう。
それでは、さようなら。
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