明夜往路

 駅から職場まで10分間、歩いていると時折不思議な夢をみる。ちゃんと地面と前を見て世界の音を聞いているから、それは空想とされるものなのかもしれないが、それよりももっと、不安定で不確定で儚い。同じ夢のなか。僕が誰であるかはそのときによって違って、ヒーローにもヒロインにも姫にも王にも蛙にも百足にもなった。でもずっと、僕は僕でしかなかった。どんな姿や肩書きを背負っていても、皆に僕は僕として呼ばれて、僕として認められていた。それは現実世界と少しだけ似ているのに全く逆で、僕が僕であればただそれだけでいい世界。生きている価値が諸々の理由にさえなってくれた。

 僕の夢はいつも誰かとの指切りで覚める。触れた温度は忘れないまま、何も考えずにただ働いた。指切りの約束の内容は、結婚とか支払いとかそんなことじゃなくて、明日もまた遊ぼうとかそんな些細なことだけだった。夢をみていて、そんなことこそが幸福なのだと気づくことができた。幼少期の僕の小指に誰の指も絡まらなかったこととか、いつもやけに絡まっていた母親のネックレスのこととか、新しいお父さん候補たちのこととか全部、夢のなかの僕には関係がなかった。でも今生きているこの僕にも呪縛なんてもうないはずだ。母が死んだのに泣けなかった夜も、決して罪なんかじゃないんだよ。だから自分の人生くらい、唾と一緒に飲み込んでやろう。明日こそ僕になるために。

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