君の隣は嘘の僕

 引っ越したら、隣の部屋の住人が大好きなアイドルだった。最初は少しだけ嬉しかった。でも冷静になって、絶対に僕がファンであることはバレてはいけないなと思った。
同じ趣味の友人を家に招待することもできなければ、普段着だったグッズを着て出かけることもできない。僕がファンだと気づかれてしまったら、彼女は気持ちが悪いだろう。家を出る羽目になるかもしれないし、トラウマになってしまうかもしれない。かといって引っ越したばかりの家からまたすぐに引っ越すのは現実的に考えて厳しいから、僕はとりあえずはここで生活を始めなければいけない。

 初めのうちはよかった。顔を合わせても会釈をする程度でしかない。でも、彼女のCDが出た日も、僕はイヤホンをつけないとそれを聴くことができなかった。彼女のライブ映像も、彼女の留守を見計らって、帰って来ないか警戒しながらみて、僕は何をしているんだろうと思った。

 何より、ライブのステージでキラキラ輝く彼女のことが大好きだった。レスポンスをずっと望んでいたし、広い会場で手を振ってもらえたときは本当に嬉しかった。それなのに、今はライブに行ったってレスをもらう訳にはいかない。近くまで来てくれたって、顔をみることもできない。いつから僕はこんなに不幸になったのだろう。いや、彼女を応援できているだけで僕は幸せなはずだった。もしあの日の一度っきりのレスポンスを、僕を、彼女が覚えていたら。そう何度か考えたけど、そうだとしたら彼女は僕の顔をみて愛想笑いなんてしないだろう。だから僕はただの隣人。そう。そうでなければならない。

 今まで生きてきて大した夢も目標もなかった僕は、初めて大きなそれをもった。僕は、彼女の隣人になる。そう決めた。部屋にあるグッズは堂々と持ち運べないどころか、ゴミの日に捨てることもできないから、ずっと押し入れに隠している。ライブに行くときは、私服で家を出て途中でグッズに着替えた。彼女が動画の生配信をしているときには、(僕がみている画面から流れる)彼女の声が、彼女の部屋に、聞こえてしまったらどうしようとドキドキした。推しが隣の部屋に越してきたときの対処法!なんて本、ラノベにさえなかったから、僕は僕なりに隣人をやってのけるしかなかった。

 顔を合わせれば、挨拶に加えて天気の話くらいはするようになったある日、彼女は僕に言った。
「私、そろそろ引っ越そうと思うんだ。」
僕は、偶に部屋に来るあの男のところに行くのか?とも、富山の実家に帰るの?とも聞かなかった。彼女は続ける。
「それでね、私実は、アイドルをやっていて。」
「へ、へぇ。そうなんだ。」
自然に言えただろうか。
「これ、今度やるライブのチケット。あげるから、来てください、ね?」
僕がチケットサイトで落選したチケットが部屋の一歩外でもらえるなんて。でも、この興奮は決して悟られてはいけない。あと少し。あともう少しの辛抱だから。
「ああ、ありがとう、ございます。行かせてもらうね。」
少し躊躇っている、ちゃんとそう見えただろうか。
「ねぇ、お隣さん、」
彼女が僕の顔を覗く。やっぱり顔が小さいなと思っていると、彼女は言葉を続けた。
「知ってたでしょ?」
彼女はそう言ってイタズラっぽく笑った。僕の心臓はドクンドクンと音を立てる。
「えっ?」
なんともすっとぼけていて、情けない自分にピッタリの声。
「だから!知ってたでしょ?お隣さん。私のこと。」
彼女の目は真っ直ぐ僕を見ている。僕の目は、広い海を音も立てずに泳ぎ続けている。ここで選択を間違えたらもうやり直すこともできないから、せめてゲームみたいに選択肢がほしかった。そのなかに絶対に紛れている正解を希望に生きていきたかった。あーあ。どうしよう。どうしようかなぁ。

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