誰かになったあなた

 ずっと書き溜めていた言葉を全部海に投げ捨てた。あの日から、私はあなただけのために生きてきた。そういうことにしないと、平静を保っていられなかった。私は勝気な性格とは裏腹に、胃も肌も弱いから。ある日、気持ちを伝えたら、あなたは俯いて謝った。私は声を出して泣いてしまったのに、ずっと近くにいてくれた。私から逃げずにいてくれた唯一の人だった。いつかあなたのことなんて思い出せないくらい幸せになったときに、私の涙は今よりもきっと甘くなる。その涙の色も味も、あなたに教えてあげたいと、今みたいに思わなくなったら。だからその日まではあなたを覚えていたいと言うと、あなたは困った顔をした。私はそれが嬉しかった。あなたをやっと困らせられたことが嬉しかった。でも10秒後、私のなかの靄は晴れて、目の前の誰かが急に汚らわしいものにみえた。蔑視する私に誰かは話しかけようとした。私は堪らない気もちになって、走って逃げだした。背中からは、私を呼ぶ声が聞こえた。ずっと聞きたかったはずのその声を、今すぐに洗い流したいと思った。
 あなたの名前はなんだっただろう。どんな顔で、どんな声で、どんな仕草で私の生活に存在したのだろう。大恋愛だった気がする。青春だった気もする。それなのに思い出せなくてもいいのは、私が薄情だからかもしれない。別に幸せを名乗るほどでもないけど、憂うほど不幸者でもないわ。母の死も看取れたし、父の入る施設も見つかった。それと、会社のビンゴ大会で、大きなテレビが当たったの。ちょっとそれだけは、悔しくって笑っちゃった。だってそのテレビに見合った大きさの家をもてるほどの収入も与えてくれない癖に。何十インチだとかの立派なテレビをくれるっていうんだもの。しかも何画素だから鮮やかに見えるとか。いつも不透明な会議ばかりしているのに、鮮明さなんて語ってくれちゃって、可笑しいの。だから私の家ではね、大きなテレビと小さなリモコン、誰に貰ったのかわからないイヤリングだけがね、やけに存在感を放って輝いているの。

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