科学者が倫理を語るとき

 科学の発展に伴い、いつも顔を覗かせているのが倫理である。それを巡る論議は、いつだって科学の発展を阻害する。我々人類が度々ぶつかる倫理の壁というものは、そんなに尊いものなのだろうか。科学の発展とそれとはどう係わりあっていくべきなのだろう。

 科学の発展を喜ぶときに、世紀の大発見だ!という言葉を使うことがある。つまり、科学の進歩というものは、いかなる創造であっても、それは結局のところ発見なのである。見つけるということなのである。人類がその事実を知ろうが知るまいが自然の摂理として、それぞれの科学的事象は後にも先にも存在し続けているのだ。時間経過の概念も、存在という言葉の真実も、どちらも証明することは難しいが、私たちはその現象を信じて生活を営んできた。科学の証明ではなく感覚こそが、人類の危機を救ってきたとも言える。

 だから私たちは倫理観を捨てられない。科学的には不必要で、存在しなかったはずの倫理というものを作って、その尊さを訴える。きっと語り合いたいのだ。愛してやまない、科学以外の何かを。科学に干渉されないすべてを。

 脊椎動物の食物連鎖の頂点に立てども、結局は科学に生かされているだけのこの生命の尊さを、いつだって見出していたいのだ。自らの存在意義を、世紀の大発見だ!と、大きな声で叫びたいのだ。科学を倫理する科学者や倫理学者が、倫理に科学される日が来ないことを、科学的な倫理など証明できないということを、私は心の隅っこで願っている。時に倫理を抱き締め、また時に放り投げて、なんとか今日も生きていこう。

 

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