流粒退廃

 楽器を持ち寄らなくてもただ音を鳴らしたら音楽になった人類の昔。遺伝子に組み込まれているそんな記憶とか、昨日みたライブの記憶とか、今日聴いた曲の歌詞とか。全部他人には伝わらなかったけど、自分のために生きるならそれも別に悪じゃなかった。

 ギャップ萌えという言葉は、誰かの性質を決めつけた果てにできたのだろう。他人と関わるにあたって分析は必要だから仕方がない。ただ余りにも人は人を見誤り過ぎているようにも思う。私がどんな音楽を聴いても意外な現実では、私がどんな口を利いても意外らしいから、甚だ話にならなかった。

 わかってほしいとか言わないし思わない。それなのに勝手にわかってあげようとする人たちの、タチの悪さに嫌気がさした。受け容れないことより傲慢なのが義務的に理解を示そうとすることで、もっと傲慢なのは、自分と違って正しくない誰かを正そうとすることだ。己のマジョリティに安心して、他人のマイノリティを許さないそれは、ハラスメントだとか名前をつける前から誰かを、あなたを、傷つけ続けてきた。罪を憎んで人を憎まず?罪を産んだそいつを私たちは知ってしまっているから、どうしたって憎むしかないのに。わかったような顔をして、勝手なことばかり言わないで。心のうちに留めておいてよ。ねぇ優しさって言葉、貴様のエゴの集大成じゃないんだよ。

 私が生きるのを諦めた朝にそっと首を絞めてくれたいつかのあの人が、今生き返りの呪文を唱えたなら、そっくり生き返ってあげるわ。殺してくれた義理として。

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