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倦怠愛撫

 ギュッと抱きしめたクッションが、自分の化身にみえて気分が悪くなって咄嗟に投げ出した。思えば生活はこういうことの繰り返しだ。いつも、自分が自分であることを思い出しては嫌気がさしている。誰かが誰かであることを思い出しては羨んだり嫌ったりしている。足元に置いてあったドーナツ型の小さいクッションに足を乗せてみたけど、この生活の浮腫みは取れそうにもなかった。クッションは時に私を軽くしてくれる。抱きしめているのに抱きしめられているみたい。だけど私のエゴを物体に押し付けているだけだから、なんだか稚拙な自慰行為みたいで居た堪らなくなる。

 洋服やトートバッグについた埃をコロコロで取ってあげる。いつかテレビに影響されてわざわざ埃取りを買ったのに、結局100円均一ショップで買ったコロコロに頼りきってしまう。消費税率が10%に変わってレジ前の募金箱が泣いていた昨日に私が嘆いたのは、店内がリニューアルの最中であり目当ての商品が見つけづらいことだった。クレジットカードが使えないことを嘆きたくもあったが、気味の悪いくらいぴったりと使い切れた小銭に何故か軽い苛立ちを覚えるに留まった。キャッシュレスキャッシュレスと様々な貨幣が存在する世の中は、店員の面倒を後押しする世の中だ。それでも兼ねてからの噂通りお客様が神様なら、祈っていればいい。天災が訪れないことを。それとも同僚みたいに、天災により休日が増えることを願ってみようか。小学生の無垢で悪質なそれみたいに。

 正義も悪も自分で判断しなきゃいけないなら、そんなものないも同然だ。私たちの個性が、どちらも壊してくれることだろう。昨日うまくいかなかったすべてが今日も失敗で終わることなんて実は有り得やしないように、死ぬべき今日が続くはずもない。でもあれだね。生きるのも義務になると卑しいね。権利だというにはどうにもこうにも歯も顔も立たない。

 どこにも存在しないあなたとか、私自身とか、信じているのはそれだけで、愛しているのもそれだけだ。交われないからこそ、いつでも帰って来られる。亡くしてしまうこともない。あなたにとっての私もそうであるといい。私は私が大嫌いよ。

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