他人語り

 ご無沙汰しております、こんばんは。ここのところもやついていることのお話を少し。

 最近出会った人に、喋るのが不得手な人がいた。ジャンルで分けするならば所謂吃音というやつだ。その人とご縁がありやりとりをして、会って話をした。滑らかに言葉が出ない、そのことを自身が一番よくわかっているらしく、画面に文字を撃ち込んで筆談スタイルで会話をしてくれた。空間としては静かだったが、会話は十分に成立していたと思う。吃音について、私はそんなに抵抗感を抱かなかった。だが、それをあまりにも強くコンプレックスに思っていることが少しだけ気になった。

 今まで長く生きてきて、それによって嫌な思いをしたことが、多々あったのだろうとは思う。それは解る。(共感ではなく、理解として。誰かの気持ちを完全にわかる他人なんて存在しないし。)だけど、冷たい言い方をすると、私にその人の過去なんて関係がない。今ここで2人で話しているということが事実で、私にあるのは、その内容や状況だけだ。多分その人は常に周りを異常に気にしている。そして周りを気にしすぎていることが、自身の肩身を狭くしているようでもあった。何か上手くいかないことをそのせいにしてしまうところがどこかにあるようにも思った。

 確かに本当にそれで途絶えた人間関係もあったのかもしれないが、気を遣われ続けることに疲れて離れていってしまった人もいたと思う。もっというとどれだけ健康に生きていても、健全に生きていても、別れというのは突然に訪れるものだ。だからそれらをすべて症状に転嫁して、向き合ってこなかったのだとしたら、少し不誠実だ。

 「こんな自分」と言いながらも、他人には誠実であってほしいと願う。でもそれは叶うことが難しい。他人に誠実を求めるなら先ず自分がそうあるべきだ。他人にばかり求めていても何も始まらない。だって他人からみれば誰しもが他人で、コンプレックスだってただ他人のコンプレックスに過ぎないのだから。

 強く生きてほしい。

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