勿忘草

 曖昧なイエスを都合よく受け入れる人は不確かなノーもイエスに置き換える。そうやって自分にとって都合のいい生き方をして、嘘をつくことにも慣れて、もう何が本当なのかわからなくなる。その癖に、いやもしかしたらそのせいなのか、とにかく他人の嘘には敏感だ。同族嫌悪という言葉が頭に浮かぶ。あいつらとは違う。そうあいつらも思っているのだとしたら、可笑しくて声も失くしてしまう。夜を支配されないために朝を嫌う弱虫は、何に守ってもらおうとしているのだろう。情熱に飽きて淡白に憧れるくらい、一度くらい溺れてみてもよかった。嘘から出た実から錆が出て、洗い流した水は汚い。サビも抜けたら甘くできたのに。せめて歌えたら軽くできたのに。いつも何かを恐れている。それが何かも知らないのに。だから生きづらくて堪らない。それでも自分は嫌えない。おいしいものはおいしいと言いたい。嫌いなものを嫌いと言うよりも強く。冬が嫌いなら夏は許したい。春だけを求めたって季節は巡るから、どうせそれなら。許すのなんてね、許されたいからだよ。昔の自分の残像が遠くで今を嘲笑する。別にそれでもいい。そう開き直る前の藍色の私。あの子の髪を撫でてあげたい。他人に触られて怪訝そうな顔をされると思う。だけど抱きしめてやりたい。あの頃から今まで、そしてこれからも、何に飢えているのか一切合切認めるつもりもないが、望むなら注がれてやってもいい。

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