沈着

 あなたが朝の歌をうたうのは夜で、秋の歌をうたったのは春だった。おまけに東だと指したのは南で、どういうつもりなのか滅法わからない。だから尋ねると、何故自分の出した正解を他人の正解だと信じてやまないの?と私に聞いた。後ろにそっと、それでも聞いてくれたことは嬉しいよ。って添えて。

 そんなことを丁寧に言ってもらっても、あなたの気持ちはまるでわからなかった。あの日の私は生を解するにはまだ若かった。そしてあなたは、ずっと前からこんな深淵にいたのかと感動した分不憫にも思った。他人を否定しないあなたは他人に否定されっぱなしで苦しんでいた、苦しんでいる。でもそのことさえもとうの昔に受けいれたらしくて、その背中は逞しくもありか細くもある。

 私にもっと甲斐性があればあなたを救えたのかしら。なんて、誰かを救いたいなんて身勝手なエゴイズム。それでもあなたに手を伸ばしたのはきっと期待していたからだけど、あなたがこの手をちゃんと掴まなかったから、私はあなたの権利と意地を知った。それで、もっとあなたを好きになった。二度と伸ばせないこの手を若き日の自分に授く。どうか大事にしてほしい。

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