正しくなくても

 人生に正しさが存在するならそれは、信じられる才能が導き出すものだ。人にはそれぞれの生き方があって、そこに世間体とかが乗っかってくる。結婚をして幸せになってねと言われて、納得してそれに励むのも誰かにとっての正しさだ。人の言うことを鵜呑みにできず、自分の選択を信じてこれが正解だと思うのも開き直るのもまた、正しさなのだろう。

 数学の問題ではない、とよく喩えられるが、決まった答えのない問いに正しさを見出すのはいつだって自分しかいない。他人を信じるという選択をすることさえも結局は自分の意思によるのだから。赤ペンを持って、マルを付けるために正解を導き出すのが生きるという作業だ。それは面倒でもあるけど、相応に楽しくもある。見えそうで見えないから目を凝らす。届きそうで届かないから夢中で手を伸ばす。誰かが苦いと言おうと、自分が甘いと思えば、それこそが私の真実だ。先に読んだ本にも、事実よりも真実のほうが余程尊いという表記があった。他人の定める事実なんかより、自分にとっての真実のほうが幾許も尊くて信じるに値する。

 あなたにとっての正しさが私にとっての不正解でも何も問題なんてない。よそはよそ、うちはうち。私の見つける正しさこそが私の真実であり続ければいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?