真相審理

 こうして文章を書くことに執着するのは、自分の書いた文章が好きだから。もっと言うと、読みたいものは作り上げたほうがはやいから。文章を書くのが好きでよかった。ほかの誰のためにもならなくても、自分を救うことができてよかった。

 音楽やその他に当てはめると、好きなものは探すのだって楽しい。作る能力が不足していればそれを選ぶ。好きな本を見つけるのだって楽しいがいつだって、自分の書いた言葉は正義だった。それが絶望であれ希望であれ、フィクションであれノンフィクションであれ。

 だから、もし、私が絵を描くことや運動をすること、野菜を食べることが苦手なのと同様に日本語を愛しているけど連ねるのが得意じゃないという人がいて、その人が私の並べた言葉を好いてくれたら、そんな幸福は二度とない。いつも夢みて願ってしまう。そうして生きていける自分を。いつぞの詩人のように、今でも、若しくは今になったからなのか有名な、芭蕉のように旅に出ようか。参った、参るところが浮かばないばかりか、私の愛するコンテンツと離れ離れになるという現実に耐えられそうもない。

 無責任だけど大好きな詞の責任の一端をいつの間にか担ってしまったように、いつかあなたが、私の無責任の責任を少しだけ軽くしてくれる日が来い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?