ありふれたクレイジー

 一般的に物心がどこを指すのかはわからないが、物心のついたときから、変わり者でひねくれ者だったと思う。経験はともかく、性のことも金のことも、周りの子どもたちよりはあまりに知りすぎていて、そのせいで口に出せないことも多かった。学校で教えられたこと、塾で教わったこと、参考書に載っていたこと、それらだけをちゃんと知っていたなら、無知と知の境が曖昧になって、知っているともわからないとも言えなくて苦しむことだってなかったのかもしれない。ペーパーテストみたいに空欄が悪だと決まっていれば、この泣き顔みたいな性格も晴れていたのかもしれない。

 当たり前のように塾という言葉を出してみたが、私の経験した習い事のなかにそれはなかった。周りの多くは塾に行っていて、そのせいで学校の宿題を提出せずに成績が下がって、挙句いつも私よりテストの点数さえ悪い人が大多数で、一体何をしに塾に行っているのか、いつも不思議でならなかった。行かなかった自分を正当化するつもりも、塾の存在を否定するつもりもない。ただ親の金を無駄にしただけの子どもたちほど純粋な歪みはないし、塾に通わせていることに満足している親ほど無様で滑稽なものも滅多にない。

 誰かに裏切られたこととか、結果として誰かを裏切ったこととか。その前後の対応や成り行きにも、大して後悔なんてない。傍から見ると私が裏切ったことになるのかもしれない幼き日の彼女だって、私からしたら度重なる悪への報復だった訳だし。バカに誑かされて私を無視した、何年も仲良くしてたはずの彼女にだって、理屈や正義はあったのかもしれない。そんなこと、無視された瞬間からどうだっていいけど。とっくに甚だ興味もないし。でも、あの日は泣いた気がする。つまらない生を、嘆いた気がする。稀に、彼女が夢に会いに来ることも、いつかの学校行事で喋りながら歩いたとかいう後日談も、処理されてペットボトルに注がれたミネラルウォーターには、映り込む心配もない。

 雇われたくないからなにか始めようかとか、くだらないことばかり考え込んでいる。夜が朝になることとかやがて昼が来ることとか、今日も人は生まれてきて、一方では死んでいくこととか、当たり前のことすべてが虚しくて好きだ。そして少しだけこわい。でもそれでも愛してやりたいといつも言っているのは、私の真理は、なんなのでしょうね。

眼鏡のネジが緩んで、それをとめるための小さなドライバーなんて持っていなくて、顔をいがませて、これを打っています。いつも結局やりたいことは書き込むこと、あとは少しの屁理屈ごっこ。繋ぎたいのは言葉だけ。それだけが私の生活に、いつかなるといい。抜け出せなくて呑まれる前に、言葉の渦を、のみたい。

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