せいくらべ

 他者からの評価のために生きられないことへの共感が強すぎたせいで、こんな体になってしまった。人は、私には血が通っていないという。だけど私は毎月の経血でリアルな血の色を下着の上に見てしまっているから、彼らとの間のギャップは埋められそうもない。

 自分と他人が共鳴すること。それは安心でも恐怖でもある。自分の考えついたと思った事象の殆どは誰かに先を越されているそれなのだ。そうだと思い込んだのはとうに過ぎたいつかのことだが、それが解だと身を以て覚えたのはもう少し今に近い過去だった。私と同じ思考をもった他人は、私よりもずっと堂々と話した。目の当たりにする度に、劣化版である自分への同情は募るばかりでやりきれなかった。

 この濁った体に流れる美学と散文が、意味を成さないことばかりを願っていた。だからこそ私にとっての、誰かにとっての価値であることを信じていた。苦しさを訴えかけても外的対処の参考しか示さない音声検索機能のような意味を私が、人間が、もってしまわないことを夢見ている。その結果私や人間が滅びても、知識が絶滅を辿っても、その先にある何かしらが生き残るためだったならそれもいい。

 考えても仕方がないから考えるのだ。仕方のあることは考えたって仕方がない。答が出てしまうとそれは生活に、時に命に直結し、私たちを少しづつでも確実に生きづらくさせる。叶わないから願うのだ。だから努める。その姿は美しく、汗は口に甘い。

 他人の幸せばかりを願っていたのは、自分が不幸であるためだった。証明し得ない他人の幸福は叶わないに等しいからだった。自分の不幸を望み、それなのに幸福を捨て切れなかったのは、私が私であるからだった。痛みも苦しさも酸いも甘いも、自分のものである限りはかわいい。他人の頬が土の味であると信じたのは、ただ自分への慰めだった。

 

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