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非文学未淑女

 私が優れた文学に出会った(少なくとも私にとってはそう感じるものを読んだ)ときにいつも思うのは、筆者の人間としての生きづらさと強かさで、誰にでもあるそんな部分に自らを重ねては感傷に浸る。全然わかっていないのかもしれない。筆者のことも、物語の本質も。だけど本当にわかったかどうかよりわかった気がしたことがなによりの悦びだったから、それ以外のことはどうだってよかった。私の右手の先にあるあの本が誰にも触れられることのない限り、私と物語の関係は酷く純粋なものであれる。永遠に。

 ひとりよがりかもしれない。知らないほうがいいことの多さにげんなりしていても、知ることの喜びを否定はできない。筆者の、又は作曲者の、或いは物語や曲やその他のなにかの、意図とつもりを、把握するのが好ましい。そんな世界もきっとある。だけど、例えば、解説を連ねる誰かさんや、筆者と、対話をするのが楽しいように。他人はただひとつの答えを、教えてくれるべき存在では決してない。殊に芸術的局面においては。誰かと語らう爽快の前提にはいつだってその答えの多様さがあり、複雑さがあり、そして自由さがあった。

 国語のテストが嫌いだったあなたに、この一連の意味がわからなくても。それでも私は嘆くことはない。現代文のテストが私は得意だったけれど、必ずしもそれが愉快だった訳ではなかった。あれはただの、忖度だったから。それならせめて、筆者の気持ちの忖度ならよかった。あれは確かいつの日も、どこかの誰かの理想論だったな。私の叩き出した模範解答ごとそうだった。

 あなたはどう思う?そんな都合のいい言葉で誤魔化してきた私の人生が、私にとっては何よりも美しいように。嘘がつけないのに本当もつけない深く天邪鬼な私が、私にとっては価値であり続けるように。あなたの息が明日も続くように。空に、デタラメな魔法をひとふり、かけて、今日も眠る。きっと、ちゃんと、明日がやって来るように。

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