忘れたいあなたを忘れないように誰かが願う夜

 あなたに伝えたかったこと、それは、命の大切さでも世界の尊さでもなく、私たちには世界を変えるくらいの力があって、同様に、世界を終わらせる権利があるということだった。

 あなたは、初めて会ったときから私にとても優しかった。いつも誰しもに虐げられてきた私は、あなたのその態度も絶対に下心からくるものだろうと決めつけていた。それも、今すぐにでもお前を抱けるんだぞ、そしたらもう用はないから、汚い山小屋にでも捨ててしまえばいいというような、今まで向けられてきたような下劣なものだと、そう思い込んでいた。
そしてそう思い込むことで私はきっと安心もしていた。今まで愛どころか親切も受けてこなかった私にとっては、良心を感じることこそが恐怖だったのかもしれない。その負の連鎖の中でそれまで生きていたのかもしれない。

 私は、あなたに酷いことばかり言った。謝っても許されないような汚い言葉をかけた。誤っても言ってはいけない雑言を浴びせた日もあった。それなのにあなたは私を見て笑った。しかもそれは馬鹿にしたような笑い方ではなく、ちゃんと人間に向けるような笑顔だった。

 段々と、ここが本来私のいるべき場所だったのではないかと思うようになった。両親からのどこか腑に落ちない扱いも、学校生活の付き物だった嫌な奴らも、ただのちょっとした試練みたいなものだったのかもしれないと思った。あなたは私の傍に居てくれて、意味もなく微笑んだりおどけてみたりした。

 あの日、あなたに交際を申し込まれて、私は少しだけ驚いた。この曖昧な関係が続かないことを、同じくらいだけ寂しく感じた。でも、率直に、凄く凄く嬉しかった。私は照れた顔をして、俯いた。あなたの顔を見て、軽く頷いた。あなたはそれにとっても喜んでくれた。そのことも嬉しかったのをよく覚えている。

 付き合い始めて2週間くらいたった頃の日曜日、あなたは私にキスをした。キスをして、はにかんだ。私は今までみたいに、いや、今まで以上にあなたを愛おしく思うべきだった。こういうときはこういう顔をするのだろうと照れたような顔で応えたが、心には、靄がかかっていくようだった。

 家に帰って、ワンピースとその下に着ていたものすべてを脱ぎ捨てて、玄関の姿見の前に立った。寒さで元気になった突起を持つ脂肪の塊を揉みながら真剣に考えた。私は何が嫌だったのかを。私には人並みの性欲はある。今までにロクなセックスはしてこなかったが、性的な行為を拒絶することはなかった。自分が、性行為を苦手とするタイプのマイノリティに属しているとはあまり思えない。となると結局、私はあの人のことも愛していないのだろうか。好きだという感情は虚像だったのだろうか。それとも私は初めて人を愛してしまったのだろうか。こんなクソみたいな私が、嫌われたくないと思うくらいに。

 考え続けても答えは出なかった。でも、現状を打破する方法が、ふたつだけ浮かんだ。私は、あなたを殺すことと自らが死ぬことを交互に夢にみていた。不思議と、ふたりとも死ぬという選択肢はなかった。なんとなくその結末は、あまり美しくないように思えたからだった。私は、死ぬことであなたの永遠になることと、殺してあなたを永遠にすることを、夜な夜な天秤にかけた。その天秤はとっくにバカになっていた。寂れた公園の隅に佇むシーソーに毎晩乗っていても、一向に対抗馬は現れなかった。

 あなたの記憶に残りたいと、強く、強く思った。私はレンタカーを借りた。いったん家に帰って衣類を脱ぎ捨て、勝負下着を纏って鏡を見た。我ながら自然に鼻唄を鳴らして、勝負服を着こんだ。
夕時を見計らって、車に乗ってスーパーマーケットに行った。和食が作れるように鯖・納豆・豆腐などを買い込んで、車に乗った。その駐車場で、私の運転する車は暴走した。車は、3人の老人を撥ね殺した。私はその時初めて、生きるということを知った気がした。

 私は犯罪者として閉じ込められた。そこに一度だけ手紙が届いたことがある。差出人のことを私は知らないけど、私には縁のないような幸せそうな風景が、その紙中に散らばっていた。手紙の最後に、筆圧の薄くなったあなたは、こう書いていた。「君は凄惨にはなりきれない、その証拠に、老人ばかりを3人撥ねた。でも君のしたことは社会では決して許されることではない。いつか君に正常に罪の意識が芽生えたら、君を怒りに行こうと思う。」と。

 この手紙の筆者は初めに少し味方のようなことを言ってくれた。それなのに最後の最後に君は異常だと書いて、首を絞めた。どうしてこんな手紙を貰わなければならないのだろう。

 私は、辛くて堪らなくなり、死んでしまいたいと思った。

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