My morning has broken.

 朝マックを買いに出かけて短い帰路を歩いていると、曇り空から雨が降り始めた。朝に近所を徘徊する部屋着姿の私は、街に繰り出すときや職に就くときとは違い、この目に、というか耳に、紫色の縁の眼鏡を掛けていた。雨のなかを眼鏡で歩く憂鬱さを、あなたがもしメガネユーザーなら理解できるだろう。兎に角、私は久しぶりに矯正を解除して、裸眼で町を歩いた。そこにあったのはいつもより格段に靄のかかった商店街で、直視できる程度に明るい、美しくて下らないそれだった。いつも鼻につく目に余る世界も社会も、本当は私には必要なかったのかもしれない。半径99センチメートル以内の世界だけを、大切にしていればよかった。

 商店街、様々な店から往々に流れ始めた曲たちから、好きなバンドのボーカリストの声が聞こえた気がした。勿論振り返ってもそこに彼はいない。前に進んでも、よくわからないこの町然とした曲が流れているだけだった。道着姿の親子連れとすれ違った。顔も知らない彼らは日曜日の朝を謳歌しているのだろうか。いつかの私のように、道着を着て色のついた帯を腹に巻いても、敵を倒せずに弱いままなのかもしれない。でも顔も知らない彼らのそんなことなんて知る由もない。

 じわじわと少しずつ強くなる、雨天決行とも小雨決行とも取れるその雨を見上げて水を浴びながら、月並みな表現だけど、このままこの雨に、世界に、溶けてしまえたらいいのにと思った。もしそれでこの身が喪われて得体の知れないいつもの苦しみや悲しみだけが鎮座するとしても。この身体さえ消えてしまえば住処も、仕事も食事も支払い義務も利害一致だって、失くしてしまえるのに。序でに、昨日言ってしまった好きなバンドマンへの悪口さえも、消えてしまえばいい。

 そういえばそのドナルドで注文をするときに珍しくサラダを頼みたくなって、単品で頼もうとしたら、それならセットのほうが安いですよ。って店員に言われて。ああ世界はこんなに優しいのに。世界は優しかったはずなのにね。遂に上がった消費税率2%も、ほぼ据え置き価格のこの店のテイクアウトなら、関係ないのかもしれない。どこかに吸い取られて消えていく私たちの110パーセントの苦しみも、関係ないのかもしれない。それでも、いつまでも見つけられなくて周りの誰もが探すことをやめてしまっても、私の捜索は続く。

 些末な食欲を差し置いてこんな文章を書きたくなったのは、昨日(突発的に訪れた休日に)観た映画の1本は期待より少しつまらなくて、もう1つは期待以上の出来だったからかもしれない。一緒に観に行った同居人も同じ感覚だったようでやりやすかった。あの映画に共感したのはどの部分で、苛立ったのはどこだっただろうか。苦しいときに誰にも送らない手紙を書くと言っていた彼女への浅はかな共感は、今日の私をコンマ1ミリでも強くしただろうか。生きているだけで尊い、弱くたって許されたはずのこの拙を。

 家に帰るともう同居人は、30秒のために1日を献上する仕事に出たようで、そこには他人の気配だけが残る。付けっぱなしの洗面所の電気も、真っ暗いテレビ画面も、なんだか同じ色に見えた。遂にこの家を支配して自由になった私は夜仕事に出るまで、半日弱の無敵を手に入れた。叫んでも歌っても、踊っても踊らされたっていい。快楽至上主義なら、今に芽生えたはずもない。

 蓋の汚れた、冷えかけのキャラメルラテからは、昨日映画館で嗅いだキャラメルポップコーンの匂いがする。私に食べてもらえなかった、キャラメルポップコーンの甘ったるい匂いが口のなかで弾けた。それなのに飲み込むと舌には微かな苦味が残る。これもれっきとした日常だった。残されたサラダを、いつものハッシュドポテトよりも愛してあげられるのかはわからない。玉ねぎドレッシングの実力だって私は知らない。年始に行ったとあるロックバンドの武道館公演を思い出したり、数年前の特番を画面に垂れ流したりするだけの、至極不毛な朝。夜の出勤までの間だけでもせめてあなたの友でありたい。

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