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無味という味

人間としての進化が動物としての退化であるように、成長して大人になるということには、老化や衰えも含んでいたりする。コーヒーやビールの苦味を好むようになるのは、舌が鈍感になってそれほど苦さを感じなくなるからだと聞いたことがある。
学生時代調理を専攻していたのにコンビニで買ったもので食事を済ませている私に、そんな食事も実は結構好きだったりする私に、最近少し変化が起きた。「甘い」、「苦い」、「酸っぱい」、「うまい」、味はわかるのだが、何を食べても、割と普通だと感じることが多くなった。おいしいものを食べて、おいしいと思うのだが、割と普通だなとも思う。そして、好き嫌いが以前より少なくなった。食べられなかったものが、食べられるようになった。入っていないものがあればそれを選ぶけど、入っていても少しくらい残さずに食べるようになった。
コンビニで買ったご飯が、一人で食べるご飯の味が、私は今でも好きだ。私の知った「無味」とは、精神的な「味気なさ」ではなく、もっと肉体的な「無味という味」なのだ。
どう生きようと今世界がなくなるわけではない。なんてことない。それと同じように、どんな味も結局、私たちにとっては、 なんてことのない味なのかもしれない。だからこそ、おいしいものは貴いのだろう。
眠れない夜を数えた。羊は柵から逃げて自由になった。毎日ご飯を食べた。おいしいものもたくさん食べた。今まで知らなかった味を知った。幻のあの味を知った。無味という味を知った。今までの「しょっぱさ」も「すっぱさ」も「にがさ」も乗り越えられるように。これからの「あまさ」も「うまさ」も「辛さ」も味わえるように。
あなたはどうだろう。意識すればその目の前に、大切な透明がみえるかもしれない。

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