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相模原殺傷事件について

 今年の七月で、相模原殺傷事件から四年経った。
もう一度相模原殺傷事件を振り返り、最後にこの事件を社会課題ではなく私自身の課題として、考えていきたいと思う。良ければお付き合いください。



相模原殺傷事件

2016年7月26日、津久井やまゆり園で元職員の植松聖(26)が入所者19名を刺殺、26名に重軽傷を負わせた事件。

事件は他人事か

「決して許されない、ひどい事件だ」。事件に対して、このような意見が大多数だと思う。しかし、とあるNPO法人はこのような声明を出した。「これを、『異常者』による『特殊な』事件で済ませてよいのか」。つまり、この事件は他人事か?という問いかけである。もっと言えば、「彼の思想は社会に表面化していないだけで『ある』のでは?」という指摘だ。

否定できないと思った。障害の有無を判定する新型出生前診断を受け、 “陽性”が確定した9割が中絶に踏み切っている社会である。事件の本質は、苦しいけれど今の社会だ。そして、被告の思想を『優生思想』でひとくくりにし、『異常者』とレッテルを張り、事件を締めくくろうとしたことや風潮は問題だったと、私自身反省した。

結局このような事件を二度と起こさない方法は、彼を異常者として認定して納得するのではなく、障害者はいなくなればいいという思想に向き合うことだ。それこそが、本当の課題解決につながるはずだ。

被告の手紙を否定できない福祉現場

被告は事件の約5か月前、衆議院議長に犯行をほのめかす手紙を送っていた。以下は、手紙前半の引用である。全文はリンクからどうぞ。

衆議院議長大島理森様
この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。
私は障害者総勢470名を抹殺することができます。
常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為(ため)と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。
理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。
私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
重複障害者に対する命のあり方は未(いま)だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。
今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛(つら)い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。
世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。
私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。
衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。
                          文責 植松 聖
【相模原殺傷】「障害者470名を抹殺できます」植松聖容疑者、衆院議長に手紙(全文)https://www.huffingtonpost.jp/2016/07/26/letter-to-chairman_n_11207296.html

 これについて、障害をテーマにした番組「バリバラ」に出演した福祉施設職員は、「『職員の生気の欠けた瞳』という、支援者の疲弊感を表した文言は他人事ではなく、ドキッとした」と話した。

これについて、私は想像する事しかできない。まずは現場を知らないと何も言えないなと思った。



匿名報道

相模原殺傷事件後、遺族が警察に被害者の名前は公表しないでほしい、と懇願した。被害者の名前を公表すると、実名で全国に報道されてしまうからだ。一度は、被害者の方は実名報道ですよ、と警察は断ったが、遺族が園長と会長に懇願しもう一度津久井署に電話をしたところ、警察が本庁と協議をし、「今回だけは障害者なので特例として匿名を認めます」ということで、匿名になったのである。そして、遺族だけでなく負傷者の家族まで匿名になった。
私はこの話を聞き、障害者だから特例を認める、というのは合理的配慮ではなく差別なのではないかと考えた。合理的配慮とは、「障害者から何らかの助けを求める意思の表明があった場合、過度な負担になりすぎない範囲で、社会的障壁をとりのぞくために必要な便宜」のことである。しかし、今回の匿名報道は、確かに「意思の表明」はあったが、その理由は「自分の子が障害者だとわかったら、親戚、近所みんなから言われて恥ずかしい思いをする」からである。確かに、そのような差別も社会的障壁の一つと言える。しかし、匿名報道にすることは、社会的障壁をとりのぞく根本的な理由にはならない。そうすることにより目の前の差別は避けられるかもしれないが、ますます障害者と健常者との距離を広げ、結果として障害者への特別意識や、そこから差別意識を生じさせてしまうのではないだろうか。
 また、その日まで一人一人が生きてきたにも関わらず、「十九名の障害者」と語られてしまうことで、本来なら届くはずの声も届かないのではないか。亡くなった方はこういう人生を歩んできた、ということを伝えることで、命の尊さの実感、そして十九名の無差別殺害という罪の重さが分かるのではないか。その点で、障害を理由とした特別な配慮を行った警察側に問題はある。しかし、今回本当に悪いのは匿名報道を遺族に望ませてしまった差別する社会である。

死刑判決

被告は重度障害者を「心失者」と表現し、生きる価値はないとし、殺害した。生に対して「条件付け」を行った。

そして、そのような被告に対して社会は死刑判決を下した。

これについて、NPO法人「抱撲」理事長であり牧師の奥田知志氏はこう話す。「我々の社会は彼に対して、『お前はもう生きる意味がない。だから死刑にする』といった。でもそれって見方を変えれば彼自身が言った言葉」。「『意味のない命は殺せ』という植松被告のメッセージ・問いに対して、社会がどう答えたのか。私たちは絶対的に揺るがない『命こそ大事だ』という言い切りから議論を始めるべきだ」と話した。

このまま黙ったままだと、社会は彼の問いから目を背け続けることになる。道徳や倫理観の押し付けではなく、『命こそ大事だ』というスタート地点から、『他者とは?』『権利とは?』と議論を重ねて答えを探していきたい。

共生社会について

地域で支えあう社会、差別のない社会、「命」の価値から始まる議論、、、理想論だろうか。

でも、どれも大切なのは「違いを受け入れ、楽しむ」というシンプルな事だと思う。人間は、他者を通して自分を知る。「違い」を受け入れる事=自分を受け入れる事だ。そして、そこには良し悪しなんてない。


私は幼い時から身近に障害のある子がいた。その子が歩く練習をしていた時兄が言い放った、「大変だから、俺だったらそんなことしない」という言葉が頭から離れない。言われた本人の気持ちは、計り知れない。そこから、わたしは誰かを傷つけないように、「傷つきそうなこと」を避けてきた。でも同時に向き合う事を避けてきたのかもしれない。この前その子と一緒に散歩に行ったら楽しくて、昔の私は馬鹿だなと思った。


色々な形で生まれてくる人がいる。私も、生まれつき関節が浅くて脱臼を六回し手術したり、股関節もやらかしたり、中三から整形外科の常連である。けれど、たとえ誰かに「可哀相」と言われてもピンとこないだろう。

人としての尊厳を守るということ。される側はもちろん、ジャッジ「する側」にも絶対に絶対になりたくないということ。

障害関係なく、誰の事も完全に理解するなんてできないと思う。常に、「他者」という存在をできる限り想像して、それが自分の限界であると自覚すること。同時に、他者の「幸せ」も計ることなんてできないということ。それが、この事件や自分の人生を通して得た私の価値観だ。

書いていたらとても長くなってしまいました。読んでくださった方、本当にありがとうございます。何かご意見やご指摘あったら、ぜひお願いいたします。それでは、ありがとうございました。

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