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喪服でブランコに乗りながら

祭壇で花に囲まれた祖母の遺影を見つめながら、今年の春大好きだったテレビドラマを思い出していた。

そのドラマには好きなシーンがたくさんあるのだけど、お経を聞きながら思い出すのはやはり死にまつわることばかりだ。主人公とその元夫たちが喪服でブランコに乗っていたこと、母の遺骨を抱えて仕事に行ったこと、親友の葬儀の日がとても良い天気だったこと。

頭の中でそれぞれのシーンを再生しながら、つくづく、良いドラマだったなと思う。日常と死が切り離されていない。どんなに大切な人を亡くしても、日常は続いていく。切れ切れに浮かぶ祖母との思い出に静かに涙が流れても、次の瞬間には、家族と祖母の口調を真似しながら笑っている。きっとばあちゃん、「もういいよぉ」って言ってるよ。

葬儀が、ただ悲しいだけの場所ではないことを知ったのは、数年前祖父を亡くした時だったと思う。親戚の幼い子どもが葬儀場を駆け回っているのを、慌てて追いかけたのをよく覚えている。目まぐるしく泣いたり笑ったりしながら、葬儀は故人のためではなく、生きている人のためにあるのだなと思った。本当は切り離せない死と生に、暫定的に区切りをつけるために。日常に戻って、これからも生きていくために。

仕事をしていても、ご飯を食べていても、ブランコに乗っていても、私たちは静かに喪に服しているし、同時に、死から遠ざかった日々を少しずつ取り戻している。たとえそこに、今は会えない人への消えない後悔が影のように張り付いていたとしても。喪服でブランコに乗りながら、忘れたり思い出したりを繰り返して、後悔と一緒に生きていくんだろう。いつか自分が、誰かに見送られる時が来るまで。

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