見出し画像

保育園に入れなきゃいけない、を手放そうと思う


(このnoteは2018年に下書きしたまま公開になっていなかったものです。今読むと、自分の変化に驚きすぎて、本当に自分が書いたものなのかなと思うくらい、今の私にない考えなのだけど、今娘が小学生になり、この頃とは正反対の角度から娘の成長を見守り、葛藤を感じることもある今の私の日々につながるスタート地点であることに間違いはなく。その後色々な「こうあるべき」を手放していった私の軌跡のひとつとして残しておこうと思い、今回公開をすることにしました。文中の彼というのは、当時結婚をしていた元夫のことです。) 

  .....  

  娘が3歳になりました。 保育園に行くとしたら、年少さんの歳です。 友だちの子どもたちは、親が会社員だろうと自営業だろうと主婦だろうと、保育園や幼稚園に通っています。  今日まで私は、娘を保育園に預けることについて、いや、預けていないことに対して葛藤を抱えてきました。  多分、その根底にある理由は3つ。

  ①私のまわりに、保育園や幼稚園に通っていない子どもがいない。  

→人が集まって娘を見たら、自然と保育園の話になる。親戚や知り合いにも保育園のことを聞かれる。きっと、当たり障りのない話題として聞いてくれてるのだろうけど、「もう年少さんだもんねー」っていうような言葉に、保育園にいれていないことへの罪悪感がうずく。 

  ②私は未満児から保育園に通っていて、楽しい時間を過ごした。一方彼は、両親の仕事の関係で引っ越しが多く「転校ばかりで嫌だった」という内容の話を聞いていた。    

→保育園に行くのが当たり前だし、できれば決まった場所に通い続けることをよしとする価値観をもっている。そこで幼なじみと出会い、中学生まで顔見知りばかりの世界で生きてきた。彼の話により、決まった友だちがいないと可哀想なのでは、という自分の中の価値観を強固に。   

③保育園に通い同世代の子どもたちと遊ぶことで、人間関係におけるコミュニケーションを学ぶことができる。と思っている。   

→ここは、本当に漠然と想像しているだけの部分。保育園に預けて“普通の”生活を送っていれば安心だ、というような、普通安全神話にどっぷり浸かってるような気もしなくもない。書きながら、自分のそんな弱さに気付かされて、ちよっと怖くなってきたぞ。  

そして、現状はというと。 東京にいるときは、一時保育や託児所を利用。ベビーシッターも今度利用予定です。自宅で作業するときは、娘も自宅にいることが多いです。   松本にいるときは、両親にみてもらったり、託児所や一時保育を利用。  彼は仕事が忙しいのもありほとんど家にいないため、彼と娘がふたりで過ごすということは、ほぼありません。   

今の状況に不満があるかというと、娘のことを勝手に心配してしまってる他は、保育園に行っていないことで起こる不便も特にない。金額だって、保育園に行く方が結果として高くなると思うし、毎日決まったスケジュールで動かなくてはいけなくなる。これだけ自分の感覚にフィットさせて生きることを優先させているのに、娘のこととなると“普通”をよしとしてしまうなんてね。 

  だいたい、世界を見れば保育園に行ってない子だっていっぱいいる。モンゴルの遊牧民は、家すら固定じゃなくて、移動しているんだもの。  

  ということで、保育園に入れなきゃいけない、を手放そうと思う。


... 

 と、以上が、2018の私が書いたもの。 

 ちなみに、その後の娘がどんな未就学児時代を過ごしたかというと、 

 東京と松本を行ったり来たり。東京にいるときは、プリスクールが経営しているオールイングリッシュの託児所(&キッズラインも)に、松本にいるときは、森の中で一日中過ごす全天候型自然保育の保育園に通っていました。

 「どこかひとつに決めなきゃいけない」を手放したことで、娘に、あれも経験させてあげたい、これも経験させてあげたいという私の希望を叶えることができました。 もちろん、あちこちの園に行くことで、ひとつの場所で同じ友達と親密な関係を結ぶということはできなくなるわけですが、コロナで松本にずっといることになったおかげで、最終的に娘はその経験もすることに。 

 もちろん、一つの保育園に通っていた方が経済的な負担はぐっと少ないわけで、結局、何を選びたいかの優先順位だなあと感じています。

いつも読んでくださって、ありがとうございます! いただいたサポートは、新しい働きかた&暮らしかたを模索する実験に使います。