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悲しむのは誰?


深刻さの原因は、「わたし」という幻想にある。

一日に何万回と現れる「思考」
その思考に翻弄されているだけということに気づくと悩みから解放されていく。

何でわたしはこうも◯◯なんだろう。
といつも悲観していた。

他者と比較しては落ち込み、
ネガティブな思考が
小さいものから大きなものまで
常に頭の中をぐるぐるしていた。

そしてその思考が真実だと思い込み
世間一般の型に嵌め込もうとしていた。

娘として両親に対してこうすべき。
妻としてはこうあるべき。
セラピストとして人格者であらねば。

その思考を真実だと思い込み
理想と現実のギャップに苦しむ
というなんとも不毛な人生を
何十年も送ってきた。

まるで苦行僧のように
常にわたしの思考と言動を監視し
失敗、失態に思えることに
フォーカスし、わたしを責め続けていた。


そんなことを続け

わたしに疲れ果て

消え入りたくなった。



「わたしはいないの。」
というメッセージに出会った頃、


熊本で震災にあった。


毎日続く余震に怯え


一夜にして崩れ落ちた
家屋や熊本城の姿を見る度に
胸が締め付けられ、
何を拠り所にすればいいのか
わからなくなっていた。


失うことのない
深い安心に身を委ねたかった。

そんなわたしに光を与えたメッセージ
「わたしはいない」


「わたし」を定義していたものを
ひとつひとつ検証していったら
単なる「記憶・データ」でしかないことにきづいた。


つまり過去のもの。


「ここにいる」という
感覚は何かというと、

それが「存在そのもの」

「わたし」という体験を俯瞰できる
のは別の何かがあるから。


つまりそっちが本物のわたし。


だけどこのロジックに気づくのは
「わたし」というエゴの声が小さくなり
感覚優位になったとき。


現象は既に起きている。
起きることが起きている。

深刻になろうがなるまいが
存在そのものの動きが起こるべくして
起きている。

悲しみ
怒り
イライラ

それをどうにかしようとするのは
映し出された映像を変えようとする
抵抗。

全体性の中に

悲しさがあり
怒りがあり
イライラがある。

その悲しさを
その怒りを
そのイライラを

コントロールすることに
力を注げば注ぐほど
それは強烈な印象を
「私」に放つ。

まるでテレビの画面にくっついて
そのストーリーが全世界であるかのような錯覚をしてしまう。


悲しみの海に漂い
怒りの火に焼かれ
イライラと共にあるとき

それはただある。

それを俯瞰している大いなる
存在がある。



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