感受性というもの
エムラボのことを、ちょっと手放してみよう、、と最近おもってます。
これまでやってきたことの続きなんかじゃない、次に展開することがきっとあって。
次のページに描かれたストーリーを、早く知りたいわけでもなく、ゆっくり見ていきたいな♡なんて、そんな心地良さを今感じています。
わたしは、母親からも言われてたほど、急ぎ足で生きてきたんだと思います。
先日のわたしの誕生日に、わたしはわたしを自分で産み落としたような、、変に思われるかもしれないけど😂そんな感じの1日を過ごしたのですが。
その時に、わたし、感情の蓋が空いたというよりも、感受性全体に対しての蓋が空いたような、そんな感じでした。
空くためには、開いたところにあったいつものドロリーンとしたものを、払拭してあげなきゃいけないけど。
すごいものがありましたね。
それが、生まれた瞬間の痛みだったのか、表現がしづらい魂的な痛みだったのか、レムリア時代の物語のような、わからないけど、調和された天国のようなところから、不協和音たっぷりなところへ落ちた時の苦痛が、不幸感というものの種になってるような、そんな感じでした。
じゃ、そこから感受性というものが発動してるとしたら、ケア者としてのわたしは、いったい何をやってあげるといいんだろ??
というところで、いったん手を止めています。
ケアにおいて、調和を奏でることは整体なんかでできるけど、調和があれば、好転反応としての不和も同時に出てくるのは、自然なこと。
結局のところ、エムラボって、止めてる足を進ませてあげることはできるけれど、変わってあげることはできないからこそ、好転反応に対しても前向きな姿勢な人でないと、受け入れ難いことなんだよな!と思います。
わたしの場合は、感受性全体のところまで辿り着けたので、すごく満足してます✨
全体がすごく軽くなったので、それに合わせて身体や心も軽くなろうとしてます。
内面という感受性が先にあって、次に身体や心というものまで浸透するようですね、わたし達の存在構造って。
今わたしという人は、整った部分からの司令なのか、"見える部分"に対しての変化変容をすっごく求めてる感じがしてます。
山暮らしを脱出して、このマンションに越してきた時には、ハワイアンな雰囲気にひたって、大好きなサラダボールをいっつもご機嫌に作ってたのに、いつの間にかそんな気分から離れてました。
でも今、また戻ってます🫶🏻🤍
ムスメとボディメンテナンスを話し合って、アイデア出し合って、たのしく献立を考えてる日々✨
目標を立てたりして、強制的にやれないわたしは、条件がそろうというか、"訪れる"と、ほんとに簡単にやれるんですよね🌈
強引に自分を動かすのはムリですねー。
hspという感受性の強い人って、ある意味、不幸感を察知しやすいと思うのですが、これはいったいどうやったら、ケアをしてあげれるのでしょー??
ケアというよりも、見守ることしかできないのかしらね??
わたしは、自分で開けて出して空ける、しかやって来てないので、正直なところ、そのやり方しかわかりません、今のところ☺️
、、というのでわたしは、ケア者としての限界地点にいる感じです🙋♀️
自分の意志で、感受性という意図された世界を通過したい方は、これまで通りエムラボをご利用いただければと思います。
逆に、感受性に蓋をすることもできるけど、そしたらずーっと同じところを、ぐるぐる繰り返し廻ってる感じは残ると思います。
人には、それぞれのお好みがありますよね☺️
わたしは、なんだか、ひと区切りついたので、ゆっくり進んでいきまーす🙋♀️
これぞ、命の音色は調和🌸
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?