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アルバイトの思い出①:配膳人

私は正社員として何度か転職したが、アルバイトでもいろいろな仕事を経験した。特殊な経験は無いが、京都市内で服飾の専門学校に通っていた時の“配膳人”のアルバイトはなかなか興味深かった。

登録制のアルバイトで、同じ専門学校に通う友達から教えてもらったのがきっかけ。当時(約20年前)の京都市内の飲食店アルバイトの時給は800円程度だったように思うが、この配膳人の時給は確か1,000円だったと記憶している。時給の高さと、食事付き、さらに仕事の都度違う現場に赴くのが面白そうと思って始めてみた。

仕事を始める前に何人かの新人配膳人が集められて研修があり、現場に行く時の手順や心得、フルコースで料理を出す順番や、両手にスープ皿を乗せて歩く練習などがあった。

仕事の情報は携帯電話から来たような気がするが、詳細は覚えていない。こんな仕事がありますという伝達があり、応募すると先着順で配属される形だったように思う。仕事が決まると、現場の情報、開始と終了の時間、服装(白ブラウス着用、パンプス着用、あるいは現地で制服に着替える)等の指示があり、それに従って現場へ赴く。実際のところ数回しか仕事する機会がなかったが、そのほとんどが東山区の料亭、または料理旅館だったように思う。

初めての現場は高校野球部の同窓会という、おじいさんの集まりで、「配膳人はお酌しない」という不文律があったにもかかわらず、お酌を求められて仕方なく応じるという場面があった。最後におじいさんたちは、持ち込んだ“友情の鐘”を打ち鳴らし、校歌を歌って散会した、というものだった。

和装の現場もあり、制服は現地で借りられるが足袋は持参との指示があったときは、どこで足袋を購入すれば良いか分からず、今なら適当な安売り店や量販店に行きそうなものだが、私は大丸百貨店の和装用品の売り場へ行き、正しい足袋を正しい値段で購入したのであった。ちなみに制服は二部式の着物で、同じ現場にモンゴルから来た留学生という女子学生がいて、興味津々でモンゴルの話を聞いた思い出がある。

あるときは京都伊勢丹の催事場で行われた北海道展のラーメン店ブースを手伝う仕事だった。前日から入っていた配膳人のお姉さんから「ラーメンの油で床が滑りやすいから気をつけて。私は昨日1度、滑ってラーメンをぶちまけました」などと聞かされた。私は履き慣れないパンプスで、滑らないよう足で床をつかむような気持ちで歩いてどうにか無事にその仕事を終えた。研修でも「料理をお客様にこぼすようなことが無いように。ホテルや高級料理店では、高価な着物を着ているお客様もあります。クリーニングや弁償などで大変なことになります」と言われていたのを思い出した。

特に印象に残っているのは、ある料理旅館で行われた自衛隊の宴会である。配膳人歴の長いスタッフさんによると毎年のことだそうだ。余興もあり「去年は裸踊りだったよ」と聞かされて、自衛隊員の肉体美が拝める!と、私はそのときを楽しみにしていた。ほぼ全員が若い男性だったその日の自衛隊の方々は、料理を配膳するそばから器は空になり、片しに行くとお皿の類いはきれいに重ねて片付けられており、料理を運ぶ度に皆さんお礼を言ってくださるし、とてもスムーズでやりやすい現場だった。

さて宴もたけなわ、いよいよ余興の時間になった。私は、いつ脱ぎ始めるのだろうと仕事そっちのけで舞台を見つめていた。が、この年は裸踊りはなく、舞台上では鼻フックを付けられた若手がそのフックで重いものをつり上げる出し物をさせられており、顔をゆがめて悲鳴を上げているだけだった。私は密かに落胆した。

食事付きで時給も良く、都度違った現場でそのとき限りの仲間と働く配膳人のアルバイトは面白かったが、仕事が不定期なのに加え、当時三条堀川のあたりに住んでいた私にとっては毎回東山区まで自転車で通うのがだんだん負担になり、結局長くは続けられなかった。あの日大丸の和装用品売り場で買った足袋は、1回の仕事で足底が汚れてしまい、上手に汚れを落とせないまま次の出番もなく処分してしまった。短い間だったが、時間の自由がきいて、都市部に住んでいた当時だからこそできたアルバイトだった。

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