「もう十分」という言葉

 2021年のゴールデンウィーク。

「もう十分」という言葉が、心の中で繰り返されている。

 朔也の母が望んでいた「自由死」という考えに否定しながらも、「もう十分生きたから」という思いは、私の中でわかりすぎるくらいの思いでもあった。年を取ると、そういう気持ちになってくるのだろうか。「もう十分」人生を歩んできたのだから。

 でも死ぬのは怖い。先日の「語る会」で平野さんが仰っていたその気持ちもわかる。『葬送』でも、ショパンが「自分の死」を考えたとき、この世界から自分がいなくなることへの恐怖をリアルに表現されていた。

 自分がいなくなったとき、宇宙の一部になって、全てが同じになる。何もなくなる。その恐怖。

 だから私はこうして何かを探すための旅をし、読書をし、文を書き、日々何かを得るために働こうとしているのか。自分がいなくなった時のために。

 もう一つ考えたかったこと。

<朔也の母と藤原の関係について>

 まず、好きな作家と恋愛関係に陥るという展開に憧れを感じたのは否めない。読者にとって夢がある。

 自分の悩みを受け容れ、大きな愛で包み込んでくれるような人がいることは、朔也の母にとって幸せな人生で、藤原との恋愛から自分の意思で離れていった時、母は、人生を辞めるに値するほどの無力感に苛まれたのかもしれない。

 母は、かつて女性の友達から裏切られたという経験から、友情でさえそうなのだから、いつかは終わる恋を自分から終わらせ、「もう十分」と感じることで、自分の人生に自分から終止符を打つ。潔い人生を選びたかったのだろうか。でもそれでは虚しい。死ぬということは、元々虚しいことだということはわかっている。それをどう自分で区切りをつけていくか、生きているうちにどこまでできるか、答えを出し切ることはできないとわかっているけれど、人生の途中、生を授かっているうちは、自分なりに生きていきたいと思う。

 母の「本心」は、母自身でさえもわからないだろうと思う。

 私自身の「本心」すら、すべてわかっていないように思う。人生の終わりに、それはわかるものなのだろうか。

 私の祖母が晩年、「この世で起きたことは、この世で解決する」としきりに言っていたが、祖母は晩年の病床でよく夢を見て泣いていた。自分自身の人生について何を想い、どんな夢を見て泣いていたのだろうか。私は祖母のように、人生について考える余地のある晩年が残されているのだろうか。

「文学の森」『本心』ブログ掲載より


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