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レモンスカッシュ

基本的に、私はあまり朝に強い方ではない。
手帳に自分の朝の体調と、それから気分を書き込むことにしているが、たいていは「体調=悪い/気分=普通」「体調=普通/気分=悪い」「体調=悪い/気分=悪い」の繰り返しである。(今確認した。)

その日はどちらかというと「体調=普通/気分=悪い」と書き込んだ朝で、例によってスロー・スタートとなった。

満月堂珈琲店(これが私の店の名前だ。)の前では様々な種類のハーブを育てている。ハーブの生育は季節によって著しく、特にだんだんと温かくなるころの成長は、眠りからだんだん覚めるように、ゆっくりと、もたもたと、そして気が付いたころにはぐん、と立ち上がっている。

私の日課は、開店準備の後、ハーブをはじめとする店の前の植木に念入りに水をやる。必要であれば剪定をしたり、位置を変えて日当たりを調節したり、その日一日の仕事のスケジュールをイメージしながら、草花を触っていると、どんどんと自分の頭が目覚めてくるような気がする。(ここでやっと、起きた、という気分になる。)

毎年ミントを栽培するが、今年は春の早くから生い茂っていたので、夏のドリンクであるレモンスカッシュを作ることにした。

ご近所の八百屋で買ったノンワックスレモン。色はオレンジだが、爽やかでいてコクのある酸みが特長だ。
一度、八百屋を物色しているときに(そこで売っているごぼ天が美味しいと常連のお客さまに言われ、探していた)店長(よく知った人だ)に声をかけられ、はい、と手渡された。「一度これ、試してみて。」
それからこのレモンの虜になり、八百屋の店長の商法にまんまと(しかし気持ちよく)引っ掛かった。

これを輪切りにして、ペパーミント、スペアミントを重ね、グラニュー糖を重ねて、ハチミツをたっぷりかける。この工程を3度ほど繰り返すと、丁度いい量のレモネードが出来る。

その朝はより念入りに植物の世話をしていた。店の前をきちんと箒で掃き、水をやり、刈り込み、日当たりの加減で鉢の位置を少しずらした。気持ちの整理がいつもより一層必要な朝であったから、葉を触り、花を摘み、さまざまなことに考えを巡らせていた。

「開いてますか?」

と女性が聞いてきた。わたしは余程熱中していたのか、彼女が近づいてきていることさえも気づかなかった。だいたいそういうときの返事はどうしても言葉が思い浮かばない。笑顔を作る間もなく、声のトーンも普段の接客時より6度ほど下がる。

彼女は年老いた女性を連れて歩いていた。おそらく彼女の母親だろう。足取りは重く、表情もどことなく朧気である。少し不安げな彼女の顔を見る。

ええ、どうぞ。と、手に持っていたホースを置き、扉を開ける。親子はのんびりとしたペースで店の中に入る。

店内にはテーブル席が3つとカウンターがある。彼女はのそのそと歩く母親に手を添えて、椅子に座らせる。

「何年か前にこちらに、父と母でお伺いさせていただいたことがあるみたいで。」

そうですか、と私は答えた。お父さんはお元気ですか、と聞く間柄ではないので黙っておいた。

「コロナの前に、何人か集まって、青い山脈とか、そういった懐かしい楽曲をみんなで歌う会がありましたよね。ピアノの伴奏で。」

ああ、ありました。きっとそこでピアノを弾いていたのは私だと思います。と答えると、彼女は少し嬉しそうな顔をした。母親は、話を聞いている風でもなく、のんびりと店内を見回している。

しばらくして、注文を聞くと、「このレモンスカッシュと、コーヒーが苦手なわたしでも飲めそうなコーヒーを。」とのことだったので、『風のブレンド』を勧めることにした。

レモンスカッシュは、氷の入ったグラスに特製レモネードを大さじ3杯、漬け込んである輪切りにしたレモンをひと切れ入れて、トニックウォーターを注ぐ。

コーヒーを抽出する間にレモンスカッシュの準備をして、一緒にお出しする。

コーヒーのカスをシンクの下のゴミ箱に捨て、ネルを洗い、コーヒーサーバーを洗う。外にホースを出しっぱなしだったことを思い出したので、片付けようと外に出ようとすると、

「おおいしいいわああ」

と大きな声が聞こえた。びっくりして顔を上げると、母親が再度彼女に向かって

「おおいいしいわあああ」

とかなりボリュームのある声をあげている。

それまで少し疲れたような顔をした彼女もびっくりしたように顔を上げた。私と目が合い、何かがほどけたような笑みを浮かべた。

それ、私が作ってるんです。そう言って貰えると、とても嬉しいです。と彼女に伝えると母親もこちらを見て、

「ほんとにおいしいわああ」

と言ってくれた。止まっていた時間が少しだけ動いたような気持ちになった。

帰り際に、「この夏ずっと作っておくんで、また来て下さい」と自然に声をかけることができた。
親子は嬉しそうに頷いて、店の前の階段を降りていった。

植木に水をやったあとの独特の匂いが、風に運ばれていった。


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